Zeitfluss

 

 灯台もと暗し、とは言ったもんだ。

 

 

「そんなトコに居るなんてなあ」

 

 

 久々に空から届いた手紙を読んで、俺は思わず笑ってしまった。

 ホント、あの街は面白くて飽きなくて、色んな人と出会わせてくれる。

 

 そう言えばエクルを見つけたのもあの街。空がプレゼントしてくれた写真集のお陰だった。

 

 

「空……お前、凄過ぎるぞ」

 

 

 まだ少し先だけど、帰国がますます楽しみになった。

 

 

++++++++++++++

 

 

『兄ちゃん、プラハは初めてかい?これやるよ!』

 

 

 プラハ来て2日間は、ひたすら観光。この日はプラハ城をバッチリ見て、夕暮れが近づいたから市街地に戻ろうと歩いていた。

 そうしたらカレル橋にさしかかる辺りで突然、見知らぬおっちゃんがバサッと俺に薄い紙の束を手渡して来たんだ。

 よく見ればそれはその辺で置いていそうな小冊子。

 表紙には[プラハの歩き方]。

 

 

「いやコレ読んだ跡あるし」

 

 

 あのおっちゃんが暫く持ち歩いてたんだろう。もう目を通したから要らなくなったってトコか。

 

 折角だ、薄い紙をぱらぱらと捲ってみた。内容は良く言えばメジャー、悪く言えばありきたりなプラハの紹介で、載ってる観光スポットの半数は既に観た。

 

 

「……あれ?」

 

 

 最後のページに何かが挟まってる。見ればA5程度の大きさの紙。何処かの教会で行われた演奏会のチラシだった。

 チェコ語だから流石に文章まで読解出来ないけど、書かれていた地名は理解した。

 

 プルゼニ。つまり、ピルゼン。

 

 

(やっぱりそっちかあー)

 

 

 もう少し手間ヒマかけなきゃいけないと思ってたけど、これなら本当に早く彼女に会えるかもしれない。

 観光客がひっきりなしに行き交うカレル橋を渡り、今日中にもう一度天文時計とヴァーツラフ広場を観ておこうと歩を早めた。明日は早速ピルゼンに移動しよう。善は急げ、だ。

 

 

++++++++++++++

 

 

「……見つけた」

 

 

 バイト代が出たら買おうと思ってた新刊の写真集。それを思いがけず空から渡されて。

 バイトが終わって帰宅して、不思議な懐かしさを感じながらページを捲っていたら、居たんだ。

 

 俺が会うべき人が。

 

 

「……ドコだろ、これ」

 

 

 目を皿のようにしてページを隅々まで見直して。何か場所を特定出来る手がかりは無いものかと探ってみたけど、流石にドラマのようには行かなかった。

 仕方ない、明日一度出版社に問い合わせてみようと決めて布団に潜り込んだ俺は、バイトの疲れもあって直ぐに無意識の世界に引きずり込まれた……んだけど。

 

 

(おめでとうございます)

 

(本当に、お世話になりました)

 

(私のほうこそ)

 

(どうしたんだ?)

 

(時間に任せよう。辛いけど……)

 

(どうぞお幸せに)

 

(さあ、お祝いだ!)

 

(あの子への手向けの曲を演奏して頂きたいのです……)

 

 

 一体何だと言いたくなる賑やかな夢を、一晩中見てた。場所はヨーロッパだったような気がするけど場面は何度もいきなり変わるしそれぞれの脈絡はぶっ飛んでるし、とにかく訳が分からない。

 

 

「……疲れたぁ」

 

 

 冬のオレンジがかった朝日を眺めながら、つい呟いた……オレンジ色に見えたのは、結局寝不足になっちまったせいかもしれないけども。

 

 

++++++++++++++

 

 

 翌朝、俺はさっさと朝食を済ませてホテルをチェックアウトした。向かうはピルゼン。あのチラシに載ってた教会に行けば恐らく、次の手がかりが見つかる。

 電車の時間は調べてなかったけど、まずは中央駅まで急ぐ事にした。

 

 

「ぅわっと!」

 

 

 交差点を渡ろうとした時、一台の車が俺の目の前を横切った。

 明らかに向こうの信号無視。俺は風圧に煽られ、担いでた荷物の重さも手伝ってバランスを崩してその場にぼすんと尻餅をついた。

 

 

『まあ、ひどい運転!こんなところで危険過ぎるわ!……貴方、大丈夫?』

 

 

 そんな女性の声と一緒に白い腕が伸びてくる。

 

 

「え」

 

 

 俺は返事をするより先に、その声と腕の持ち主を見上げていた。

 

 流暢な英語。赤みの強い髪。“彼女”じゃない、全くの他人。

 なのに何だろう、この感じ。

 

 前にもこんな事があった。

 でもそれは俺じゃなくて……あの時……。

 

 

『どこか痛いの?』

 

 

 再び女性の声と、顔に布をあてられる感触。

 

 そこで俺は初めて、自分が涙を流している事に気付いた。

 

 

---------------------

 

 

 何かがおかしい。何だろう。

 

 ピルゼンに向かう列車の中でぼんやりと考えるのは、さっきの妙な感覚。以前の記憶が蘇るあの感じに似てたのに、一方でとても冷めた目でそれを見ている自分もいたような気がする。

 

 どっちも自分だ。

 

 

(弥の事故のフラッシュバック?)

 

 

 自分に問うが、それも違うっぽい。お手上げだ。

 

 

(弥に電話してみるか)

 

 

 前世の記憶は、彼女の方が明確に思い出してる事が多い。この件についても何かを知ってくれてると助かるんだけど、どうだろう。

 

 

---------------------

 

 

『残念だけど、それは私にも分かんないわ。少なくとも今は』

 

「そっかあ」

 

『でもまた何か気付いたら教えて。私も思い出す事があれば伝える』

 

「サンキュー」

 

 

 ピルゼンに着いて弥に連絡を取ってみたけど、そんなにあっさりと解決する筈も無かった。

 

 

『でも結構な進み具合なんじゃないの?もうピルゼン入りしてるなんて』

 

「うん。何か、ヒントが向こうからやって来てくれてる感じでさ。ひょっとしたらピーセクあたりかもと思ってた部分もあったけど、結局こっちが正解らしい」

 

『へー。やっぱりビール繋がりだったかな』

 

「ビールだけじゃ足りないだろ。だって……」

 

 

 彼女の冗談に俺も軽口で対抗しようとしたのに。

 

 

[世話になったからな、あの街には]

 

『ん?』

 

「……あ、いや。何でもない」

 

 

 誰だ今の。

 俺じゃない誰かが……俺の口を勝手に借りて喋った。

 

 

---------------------

 

 

「あ、あれだ」

 

 

 翌日、チラシを頼りに教会を目指した。道行く人に尋ねながら歩いて行けば、無事にそれらしき建物が視界に入る。

 歩を進めると、教会からヴァイオリンの音が聞こえてきた。今日は演奏会は無い筈だけど、練習日か何かだろうな。

 

 立ち止まって眺めていると、今度は大きな楽器ケースを抱えた男の人が教会に入って行くのが見えた。多分、あれはチェロ。

 

 

(……あ、れ?)

 

 

 途端に何かが脳裏を掠め、右腕が痺れた。重力に従うしか無くなった荷物は地面にどさりと落ちる。

 

 

(何だ?コレ)

 

 

 咄嗟にかがみ込み、左手で右腕を庇った。じっとしていても動悸が激しくなる……落ち着け俺。こういう時は深呼吸だ深呼吸。

 

 

「……はぁ、ビビった」

 

 

 数分後には動悸も右腕の痺れもすっかり治まって一安心。だけど原因が分からない。

 掠めていったのは前の記憶だろうから問題無い。でも痺れと動悸は?まさか、記憶に身体の感覚を伴うなんて事が?

 

 

(って考えても分かんないよなー)

 

 

 路上でしゃがみ込んでても何の解決にもなりゃしない。身体の違和感が抜けたのを確認して、俺は再び荷物を持って歩き出した。

 程なく到着した教会のドアをノックすれば、牧師さんらしき人が顔を出す。

 

 

『はい?』

 

『恐れ入ります。教会を見学させて頂きたいのですが』

 

『おや、旅行者の方ですか?』

 

 

 牧師さんは意外そうな顔をしたけれど、演奏会のチラシを見せると納得してくれた。

 

 

『そうでしたか。大してお見せ出来るようなものも無いんですが、それでも宜しければ』

 

『さきほど楽団の方が入られるのを見かけましたが』

 

『練習日でして。演奏会は2ヶ月に1度なんです。でも楽団の方は見学も歓迎しておられますから、是非お話を。今日は丁度お客様も来られてますから楽しいと思いますよ』

 

『お客様ですか。邪魔になりませんか?』

 

『全く問題無いですよ。お客様と言っても元団員の方ですから、和気藹々としてます』

 

 

 さあどうぞと案内された礼拝堂は、こぢんまりとして年月を感じさせる。でも、とても配慮が行き届いていた。牧師さんがドアを開けると楽器の音がぴたりと止まり、室内に居る人達の視線が一斉にこっちを向く。

 ヴァイオリンを持った女性、チェンバロの男性、そしてさっき見掛けたチェロの人。それから、チェンバロにもたれかかるようにして立つ男性が一人。

 

 

『おや、そちらの方は?』

 

 

 チェンバロの男性が口を開いた。

 

 

『遠くからのお客様です。先週の演奏会のチラシを、プラハでご覧になったそうですよ』

 

『それはそれは。よく来て下さいましたね、どうぞこちらへ』

 

 

 チェロの人が大きな身振りで此処へ座れと案内してくれる。促されるままに腰を下ろすと、別な男性の声がした。

 

 

『では、はるばるやって来てくれたお客人にお礼の一曲を』

 

 

 チェンバロにもたれてた人だ。

 

 

『勿論ですよ。どれ行きます?シアン』

 

 

 ヴァイオリンの女性が確認を取る。

 

 

『そうだね……G線上のアリア、かな』

 

 

 ご存知ですよね?と、シアンと呼ばれた男性は俺にニッコリ笑いかけてきた。

 つられるように頷けば、彼は指先の一振りと呼吸のタイミングだけで明確に、曲の開始を3人に告げた。

 

 

---------------------

 

 

『まあ、言うなれば「ステージ繋がり」ですよ』

 

 

 練習後、他のメンバーと別れてから俺を食事に誘ったシアンは、運ばれて来た黒ビールを一口飲むとそう言った。

 

 

『ステージ?』

 

『おや、覚えておられない?』

 

 

 右の眉がピンと跳ね上がる。予想外だったらしい。

 

 

『てっきり、私の事を思い出して訪ねて来てくれたと思っていたんですが』

 

『はあ。申し訳無い』

 

『では何故、此処へ?』

 

『それが……』

 

 

 俺はこれまでの経緯を尋ねられるまま彼に話した。勿論シアンは「彼女」じゃない。けれど、彼にも以前会ってるのは間違い無いようだった。

 

 

『なかなか面白い経緯ですね。その流れで私と会って頂いたという事なら、トキ。貴方の探してる人と私も音楽で繋がってる可能性が高い』

 

『音楽で?』

 

『そう』

 

『でも何故、俺が、音楽で?』

 

 

 奇妙な沈黙。

 

 

『……本当に未だ思い出して無いんですね。なのに此処までやって来てくれたのが流石と言うべきかな』

 

 

 呟くようにそう言ってから俺の方へと向き直り。

 

 

『私は貴方の記事を何度か拝見してますが、特に芸術への造詣が深いと感じます。貴方はジャンル不問のフリーライターと仰いますが、根底には音楽がある。それは確信しています』

 

『音楽……』

 

『時期尚早かもしれませんが……どうかこれだけは先に言わせて下さい。私が前に貴方と同じ時代に生きていた時、貴方はチェロ奏者でした』

 

『俺が?』

 

『ええ。そして後からは、テノール歌手としてもステージに立っていた』

 

 

 まさかの、俺自身も知らない俺の過去。

 

 

『そうなんですか……シアンは、その時は?』

 

『今とあまり変わらないです』

 

 

 ふふっと軽く笑い。

 

 

『今は音楽プロデューサなんです、まだ駆け出しですけども。そして、前も同じような事をやっていたんです。トキが所属していたトリオのマネジメントを手伝わせて頂いたり』

 

『すごい。なら、人脈も広かった?』

 

『みたいですよ。お陰様で今も、知っているアーティストはそこそこ多いと自負してます。その中には過去にも一緒に音楽や戯曲、オペラなどをやったり、コンサートの運営をした仲間が何人もいます』

 

『何人も?』

 

『そう。生まれ変わっても好きな物は変わらないんでしょうね。音楽をやってた人間は、次の人生でも音楽に囲まれて生きたいと思うのでしょう』

 

 

 言いながら一冊の手帳を取り出す。広げたページにはびっしりとあらゆる国の人名がメモされていた。そこから数人をさっとピックアップして連絡先を書き写す。

 

 

『まずは近場から。多分ヒットすると思います。でも万が一この中に居ないようでしたら、また連絡を下さい。次に可能性のある人をまたお教えします』

 

 

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『そう言う事なら、是非お会いしたいわ。今はピルゼンなのね?』

 

『そうです。急ぎませんので、空いてる日があれば』

 

『じゃあ5日後の土曜日、レーゲンスブルク大聖堂。15時で良い?』

 

『勿論です』

 

『レーゲンスブルクでの宿が決まったら連絡先を教えてね』

 

『分かりました。木曜日にはそちらに移動予定なので』

 

『了解。じゃあ土曜日。楽しみにしてるわ、トキ』

 

『こちらこそ宜しく、エクル』

 

 

 シアンと話した翌日、俺は彼が教えてくれた人達一人ずつに電話を入れてみた。

 5人中3人は留守で、連絡がついた一人はピーセクの西にあるストラコニツェという所に居て、明日の火曜日がオフだと言う事で、既に会う約束を入れてある。

 

 そしてもう一人、連絡がとれたのが彼女……エクル・トルンカだった。

 

 

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 そぼ降る雨の中、クリーム色の傘をさした女の人が歩いて行く。もう何度も見た光景。

 俺はその場を動けない。彼女の後ろ姿をじっと見送るだけ。

 

 街灯の灯りが揺らめき、彼女の姿が向こうの路地に消える。

 入れ替わるように、手前の十字路からステッキを手にした男性が現れる。あれは以前の弥。

 

 その時唐突に俺の目の前を一台の馬車が猛スピードで走り抜けた。

 煽られ倒れ込んだ俺が首を巡らしたその先で、馬車が突っ込んで行く。逃げろと叫びたいのに声が出ない。

 

 声が……。

 

 

「うぁぁあっ!」

 

 

 自分の叫び声で目を覚ました。

 

 

(あ、夢……)

 

 

 空調が効いてる筈なのに汗びっしょりだし、心臓も未だドキドキしてた。俺、これは相当魘されてたな。

 

 深呼吸して夢の余韻を振り払う。少し落ち着いてから洗面台まで行って顔を洗って、やっと現実に戻って来れた。カーテンの隙間から窓の外を伺えばそろそろ夜明け。

 普段ならもう一眠りするところだけど、流石にもう寝付けそうに無い。簡易ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを作った。

 

 出来立てのそれを持ってベッドの縁に腰掛けて、ずずっと一口飲んで人心地がついた。

 

 

「何か、変な夢だったなあ……」

 


 思わず溜息が出た。

 さっきの夢。前半は良いけど、気になったのは後半。プラハで事故りかけたからあんな夢を見たんだろうけど、どうもそれだけじゃない気がする。

 

 

「あ……っと」

 

 

 右手に持ってたコーヒーカップがぐらりと傾く。考えすぎてぼんやりしたかと慌てて持ち直した……筈だったのに。

 

 急に麻痺してしまったかのような右手は完全に力を失い、カップは空しく床に転がった。

 

 

---------------------

 

 

『じゃあ、私が「当たり」って事ね』

 

『ですね。初めまして。あ、お久しぶりかな?』

 

『どちらも正解よね。初めまして、トキ。お久しぶり』

 

 

 土曜日。俺とエクルは大聖堂がよく見えるカフェで改めて挨拶を交わした。待ち合わせは全く問題無し。彼女が写真集の中の姿そのままだったし、向こうも俺の事を一発で見分けてくれた。

 ホント、こんなに早く『再会』出来るなんて凄い。

 

 

『気楽にしてね。年も近いんだし、どうせ旧知の仲なんだから。ストラコニツェの方はどうだったの?』

 

『俺との接点は無かったみたいだった。でもエクル、貴女の事は知ってたよ』

 

『そうね、以前に音楽祭で共演したから』

 

『顔、広いんだなー』

 

『ふふ、まあね』

 

 

 言ってニッコリと笑う。どこか悪戯っ子みたいな笑い方で、愛嬌がある。

 

 

『それにしても、早くに見つけてくれたのね。あと10年はかかるかなって思ってたんだけど』

 

『俺が手にした写真集に貴女が載ってたんだ。それで探すきっかけが出来た』

 

『あら、いつの間に』

 

 

 びっくりまなこになる彼女に、ざっと説明した。

 

 

『確かにその頃だったらプラハの近くに居たわ。あの辺りの何カ所かでコンサートツアーをした事があるの。シアンと一緒に動いてた時よ』

 

『あ、だから彼と知り合いなんだ』

 

『そう。貴方もだったでしょう?』

 

『いや、それなんだけど……』

 

 

 当然のように言われると、ついつい腰が引けてしまう。

 

 

『どうしたの』

 

『実は……俺、シアンの事が思い出せてないんだ。彼は覚えていてくれたのに』

 

 

 エクルの表情が微かに曇る。

 

 

『そうなの?じゃあひょっとして……』

 

 

 何かを言いかけた彼女の声は、そのままふいと消えてしまった。少し考える素振りをしてたけれど、それからまたさっきの笑顔に戻って。

 

 

『でも、私より先に彼に会えたんだし、本人もそう言ってるんなら間違い無く顔を合わせてる筈よ。その内思い出すわ、きっと』

 

『そう願ってる』

 

『オッケー。じゃあそろそろ行きましょうか』

 

 

 その後は夕方まで、彼女に市内を案内してもらった。生まれはチェコだけど、すっかりドイツでの暮らしのほうが長いと言うのは本当みたいだ。そして彼女が歩いていると、あちこちから声がかけられる。

 

 

『やあエクル、調子はどう?』

 

『バッチリよ。明日は来てもらえるのかしら』

 

『ああ。フィアンセも連れてくからな。会ってやってくれよ』

 

『ええ勿論!おめでとう』

 

『あらエクル、明日は本番よね?』

 

『ええ。リハーサルは夜……って言ってもいつもの教会でのだから』

 

『そうね。じゃあ今夜は飲み過ぎだけ注意ね』

 

『もう!一言多いんだから』

 

 

 楽しそうに、そんな会話を交わしながら『トキ、こっち』と俺を手招きする。

 

 

『こっちにあと5分くらい歩いて行ったら、私達の拠点にさせてもらってる教会があるの。明日は日曜礼拝の日で、後からお茶会とミニコンサートをするのよ』

 

『じゃあ、そこで演奏を?』

 

『そう。仲間内じゃ定例会って言ってるんだけど。最低でも月一回、日曜日に演奏してるの』

 

 

 地元の教会で小規模ながらも定期的に演奏会を開く。地味だけど根気と信念が無いと出来ない活動だ。そしてその活動を何よりも大切に思っているのが彼女から伝わってきた。

 

 

『だからかしら、大きな舞台にはあまり魅力を感じないの。嫌いじゃないんだけど』

 

『でも、音楽祭には出たって』

 

『デュエットの相手が急病で、私は代役。そうやって呼んでもらう事があるのよね』

 

 

 さすがプロだなあ、エクル。

 

 

『だけど、ステージと客席が遠いじゃない?勿論、どんなにキャパの大きいホールでもオーディエンスの反応は伝わってくるわよ、あの空気は嘘をつかないから。それでも私は、オーディエンスとの距離が近いほうが好き』

 

『エクルのおねえちゃん!』

 

 

 会話に突然、子どもの声が入ってきた。

 

 

『あら、ティアナ』

 

 

 振り返り視線を下に落とせば、女の子。

 5歳くらいかな?エクルが大好きでたまらないってオーラを出しながら彼女の脚にしがみつくようにしてくっついてきた。

 

 

(……え?)

 

 

 そんなティアナを見た途端、俺の右手が痺れを訴えだす。

 

 

『トキ?』

 

『あ、いや、何でも……』

 

 

 怪しまれないように鞄を左手に持ち替える。だけど。

 

 

『おにいちゃん、エクルのおねえちゃんのおともだち?』

 

 

 無邪気な笑顔でそう尋ねられたその瞬間、強烈な眩暈が襲う。

 耐えきれず、俺はとうとうその場に蹲った。

 

 

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『大丈夫?』

 

『……ああ、もう平気』

 

 

 突然動けなくなった俺を見たティアナは吃驚して泣き出してしまった。幸い直ぐに母親がやってきて宥めてくれてたから後は大丈夫だったと思うけど、寒くも無いのにガチガチと歯を鳴らして震え出した俺は、エクルにはどう映っただろう。

 

 丁度目の前にあった靴屋から店主らしき人が出て来て俺を抱え上げ、店の奥の一室で横にならせてくれる。それから10分程で、さっきの痺れも眩暈も嘘のように消えた。

 

 

『体調良くなかったの?それとも何か持病が?』

 

『いや、それは無い。ここ数日、右手が痺れて力が抜けたりする事は何度かあったけど。眩暈までしたのは初めてだよ』

 

『ここ数日?』

 

 

 何か思い当たる事でもあるんだろうか、彼女の顔が少し厳しくなる。

 

 

『エクル?』

 

 

 落ち着かない、不安のような物を感じて彼女を呼ぶ。俺の顔を見つめる瞳の奥が微かに揺らぐ。

 

 

『トキ』

 

 

 ふわりと右手を取られた。

 

 

『もう少し休んだら、今日は宿に戻ったほうが良いわ。車、手配しておくからそれで帰って』

 

『でも』

 

『本当は教会まで案内したかったんだけど……でもここまでの道はもう分かるわよね?』

 

『ああ。多分……』

 

『此処からなら、後は本当に一本道だから迷わないと思うわ。明日、定例会。来てくれる?』

 

『勿論だよ。さっき話を聞いてから、是非行きたいと思ってたんだ』

 

『そう。良かった』

 

 

 言葉と裏腹に、彼女の笑顔は何処か痛々しい……何故なんだ。

 

 

『一応、教会までの地図を書いておくわね。開始は13時。遅れても気にしないで入って来て』

 

『分かった。ありがとう』

 

『それと』

 

 

 俺の右手を包む彼女の両手に力が籠もった。

 

 

『これだけは覚えておいて。過去は過去、現在(いま)は現在。同じだけど、全然違う。だから、過去に引きずり込まれないで』

 

 

---------------------

 

 

 右側に灯りを感じて振り向けば、小さな棺が目に入った。キリスト教式のそれだ。

 

 

(あれは……誰の?)

 

 

 呆然としている内に演奏が始まった……故人の好きな曲だったのだろう。つい先日も聴いた『G線上のアリア』。

 

 教会の扉の前に人が立っている……シアンだと分かった。

 やって来た人たちを案内している。彼が、この葬儀を取り仕切っているらしかった。

 

 視線を再び棺のほうへ巡らせる。

 手前には、涙にくれている女性。奥には3人の演奏者。

 

 

(……エクルだ)

 

 

 ヴァイオリンを弾いていたのは、いつもの夢に出て来る「傘を差して歩く彼女」とは別人。でもエクルなのは間違い無い。

 

 

(また別の時代にも会ってたって事なのかな……)

 

 

 ヴァイオリニストの隣にいる、チェンバリストとチェリストに目を向けてみた。兄弟だろうか、よく似た雰囲気と面影を持つ2人は、互いを見ずともぴたりと息を合わせて演奏している。

 

 そして気付く、小さな違和感……その正体が分かった時『何故?』という疑問が湧き起こった。

 

 

 チェンバリストの左頬には、隠しきれない切り傷。

 チェリストの右袖からのぞいているのは……包帯。

 

 

(貴方はチェロ奏者でした……)

 

 

 シアンの声がこだまする。右手の痺れが蘇る。

 痺れは、はっきりとした痛みへと変化していく。

 

 ……こんな痛みなんかどうって事無い。

 だって……だって、あの子は……。

 

 

『おにいちゃぁん!おねぇちゃぁん!』

 

 

 おにいちゃぁああああん……!!

 

 

「……っ!」

 

 

 激しい衝撃を受けた気がして飛び起きればホテルのベッドの上。夢だったと分かっても動悸と呼吸の乱れは直ぐには治まらず、必死で息を整えようとする程に苦しさが増した。

 

 

「く……っは……」

 

 

 苦しい。

 辛い。

 

 でも……でも、あの子の辛さはこんなものじゃなかった筈。

 

 

「……っごめ、ん……ごめ……」

 

 

 記憶の奥底からわき上がる悔恨。

 

 ベッドに突っ伏し、俺はそのまま空が白むまでひたすら『あの子』に謝り続けた。

 

 

---------------------

 

 

『そう……思い出したの』

 

 

 俺は夜が明けても暫くベッドから動けなかった。

 

 時間を過ぎても食堂に現れない俺を心配したホテルマンが、わざわざ部屋まで朝食を持って来てくれたお陰で、漸く現実に戻った心地がした……結局、それでも半分も食べられなかったけど。

 

 そんな状態で定例会に行ったもんだから、ただでさえ昨日の一件で俺の体調を気遣ってくれてたエクルには一発で何かあったと見抜かれた。そして終演後、近くのカフェへと連れて行かれて今に至る。

 

 

『じゃあ、やっぱり夢じゃないんだ?』

 

『ええ、それはトキの過去の記憶。辛かったでしょう……よく話してくれたわ』

 

 

 何とも答えられず、ただ首を横に振る。その時ふいと彼女の言葉を思い出した。

 

 

『どうしたの?トキ』

 

『エクル……君が昨日「過去は過去、現在は現在」って言ってたのは、この事?』

 

『そうね。全てではないけれど、間違い無くその一部ではあるわ』

 

『他にも何か?』

 

 

 知らず、身を乗り出した俺を軽く片手で制して彼女が口を開く。

 

 

『今回こうして貴方と会えたのは本当に嬉しいの。でも昨日、貴方はシアンを思い出せていないと言った。だから私達と活動していた頃の記憶はまだ戻ってないかもしれないって思ったのよ……それでも、こうして再会したからには遠からず思い出すのも予想はついてた』

 

『その時に俺がなるべくショックを受けないようにと?』

 

『出来る事ならね。そう思ったけれど』

 

 

 寂しそうな笑顔。

 

 

『トキ、貴方は優しいわ。前とちっとも変わらない。でもその傷は乗り越えないといけない』

 

『傷?』

 

『そう。魂の傷』

 

 

 ぎりっと心が軋む。

 

 

『冷たく聞こえるかもしれないけど、あの事故は防げるものじゃなかった。あんな短い間に何が出来ると言うの?後から「こうすれば良かった」とか考えるのは以後の教訓になるだろうけど、それであの子が生きて戻って来る訳じゃないわ』

 

『分かってる。だけど……』

 

『それに、貴方はきちんとあの子を見送った。あの子が大好きだった曲で……見たんでしょう?』

 

『……ああ』

 

 

 認めるしか、ない。

 

 

『貴方が見たのは、正しくあの子の葬儀。チェロを弾いていたのは貴方。私達「3人」で、あの子が神の御許に戻れるようにと演奏したのよ』

 

『G線上の、アリア……』

 

『そう。そしてそれは、あの子の母親が心から願った事だった。後で丁寧な手紙を頂いたわ。「哀しいけれど、お陰で娘を心穏やかに弔ってあげられる」って』

 

 

 エクルがコーヒーを一口飲む。川辺に集う鳥たちの鳴き声が耳に付いた。

 

 

『あの時、貴方は自分の怪我も構わず見送りの曲を弾きこなし、あの子の母親の心を救った。でもその直後から、今度は貴方が心の均衡を崩してしまったのね。私もシアンもそんな貴方に何もしてあげられなかった。だからこそ後に貴方が闇の中から戻って来た時には本当に嬉しかった』

 

 

 戻って来た?という事は……。

 

 

『じゃあ、その後なのか?俺が歌うようになったのって』

 

『そうよ。それは覚えてた?』

 

『いや、シアンが教えてくれたんだ。俺は思い出せてないけど』

 

『それは彼が正しいわ。何年も経ってからだったけど、一度は音楽から離れた貴方がテノールとして戻って来てくれた。そしてまた私達3人で活動を始めたの』

 

『そうなんだ……』

 

 

 すっかり冷めてしまったコーヒーを俺も口にする。ゆっくりと飲み込みながら彼女の話を反芻して……引っ掛かる事があった。

 

 

『エクル。俺の右腕って、その時には治ってた?』

 

『ええ。ただチェロを弾ける程には……残念だけど』

 

『そうか。あと、もう一つ』

 

『何?』

 

『俺が歌うようになったきっかけとか、知ってる?』

 

 

 この問いかけにも彼女は答えてくれた。昨日会った時の笑顔で。

 

 

『貴方の従弟よ。チェンバリストの』

 

『従弟?』

 

 

 だから似てたのか。

 

 

『そうね。貴方とは本当の兄弟みたいに仲良しだったわ。彼には未だ私も会えてないんだけど、彼ほどの音楽好きなら、今もきっとその道に進んでると思うのよね』

 

 

 >>>2

 

 

20091107-20100420-20180505