さっき寝たとこなのに、また夕暮れ……ああ、記憶の夢の続きか。

 

 『従兄弟の』流黎さんがベンチに座り、家路を急ぐ人々を眺めている。この前、公園で俺がバイトあがるのを待ってた時と同じように。

 

 

(……大丈夫か?)

 

(そっちこそ)

 

 

 短く交わされる会話。

 間に合わなかった彼の助けの手。

 

 追悼の演奏が終わってから、その手は弓を持てなくなっていた……それは決して怪我のせいだけじゃなく。

 

 

(どうしようかな……これから)

 

 

 柔らかな笑顔で泣いている。涙を忘れてしまったように。

 

 

(時間に任せよう。辛いけどさ……焦ったって仕方ないじゃないか)

 

(うん……そうだな。それしか無いよ、な)

 

(……帰ろう?)

 

(ああ)

 

 

 街角の教会から微かに歌声が聞こえてきた。バッハのモテット。聖歌隊が練習してるようだ。
 『Fuerchte dich nicht』……恐れるなかれ、我汝と共にあり。

 

 

 ……暫く経ち、すっかり埃を被ってしまったチェロを奥の部屋へ直す彼に、俺は思い切って切り出した。

 

 

(歌ってみない?)

 

(……歌?)

 

 

 微かな、でも確かな反応が彼の瞳に浮かんだ。

 

 

(秋の収穫祭で彼女の知り合いが歌い手を募ってるって。俺も手伝う事にしたんだ。一緒にどう?)

 

(……ちょっと、考えさせて)

 

 

 ……交錯する歌声。織りなす旋律は、バッハのコーヒー・カンタータ。伸びのあるソプラノ、張りのあるバス……そしてしっかりと主張しながらも他と綺麗に調和する響きを持ったテノール。

 

 

(待って。そこはこんな風のが良いんじゃないかな?)

 

(でも、それだと間延びした感じにならない?私はさっきの方が良いと思うわ)

 

(どちらも面白いんじゃないか?好みによる部分もあるだろうし。両方やってみよう)

 

 

 彼のテノールが蕩々と響く。その瞳に以前の翳りは無い。三人を軸とした声楽アンサンブルが出来上がっていった。

 

 

(……作曲を?)

 

(うん。彼女が作詞してくれた。これに曲、つけてみない?出来上がったら次のコンサートで披露したいなあと思って)

 

 

 笑顔でぺらりと渡された紙に書かれた8行の詩。その一番上には曲名も付けられていて……。

 

 

「そういう事かあ」

 

 

 目を覚ませば丁度夜明けの頃……って言ってももうじき6時半。

 

 今日の夢は、またえらく鮮明だった。おかげで今まで何となく引っかかってた事が、あらかた解決したような感じだ。

 8行詩の上に書かれてたのは『Zeitfluss』。前に弥さんと話してた時に見えたタイトル。そりゃ今回『彼女』が俺を指名してくる訳だよ。

 

 

「そう言えば……」

 

 

 書きかけのままになってる例の曲。歌詞を読み直せば……今なら分かる。これ、再会のメッセージじゃないか。

 

 

「そっかー」

 

 

 言いながら、勝手に顔が笑うのを止められない。心がウキウキする。弾む気持ちにつられるように続きが何処かから流れて来た。副旋律もサクサクと五線紙に書き出される……よし、出来るぞこれなら。

 

 

---------------------

 

 

「鳥栖珈君」

 

「ハイ、すんません」

 

「まあ君がこんな事をするのは何か余程の事があったからだろうけどね。それにしても珍しい」

 

「……すいません」

 

 

 作曲に没頭してたら講義に遅刻した。っていうか殆ど無断欠席だ。一区切りついて『そう言や腹減ったな』と思って時計を見たらとっくに講義が始まってる時間だったんだから。

 当然ながら先生に呼び出されて、俺はまた教務室に居る。遅刻についてはそれ程怒ってる風に見えなかったから少し安心したんだけど、そうなると呼び出された理由が他にもあるって事で。

 

 

「まあ良い。今後はこういう事の無いように。で、先日の話なんだが」

 

 

 やっぱり来た。

 

 

「此処で決定しろとは言わないけど、良ければ今考えてる事だけでも教えてくれないかな?どんな具合?」

 

「あー……」

 

 

 まだ決め切れない。やっぱり優柔不断だ……でも一つだけは。

 

 

「イタリアへは行きません」

 

「そうか。じゃあそっちは他の生徒に回すね」

 

「はい。それと……」

 

「うん?」

 

「もしも、なんですけど。来年、年明けから次年度の前期いっぱいまで休学したら、やっぱ2年留年て事になりますか?」

 

「休学?」

 

 

 流石に予想外だったらしい俺の質問に、先生がキョトンとしてる。

 

 

「個人留学でもするのかい?」

 

「イエ……実は」

 

 

 言っても良いのかとも思ったけど、休学という言葉を出した時点でもう言うしかなくなってた訳で。誰からの話かは伏せて、ヨーロッパ音楽祭の件を説明した。

 

 

「それはまた面白い話が来たもんだね」

 

「はあ」

 

「それで休学云々が気になった訳だ」

 

「ハイ。早ければ年明けからでもと言われてるんですけど、そうなると単位の取り方がややこしいじゃないですか」

 

「そうだね。君の場合は今のところ出席率だけだけど、それでもウチの学校は厳しいからね。年明けから全休だと今年度分の単位認定は……うーん、ギリギリでアウトかな」

 

 

 だよなー。

 


「出席日数は次年度へ持ち越せないから、単位取得を考えると9月から復学してもあまり意味が無いね」

 

「ですよね」

 

「でも音楽祭の話を受けるとなると、4月じゃ遅すぎる」

 

「そうなんです」

 

 

 学校からの留学なら4月スタートだからロスが無い。しかも当然単位は認定されるから効率は良いんだ。勿論その場合は、まる一年クラシック漬けになる事を覚悟しなきゃいけない。

 

 

「けど、君がそう言うって事は、かなり気持ちが向いてるんだろう?本気だと言うなら、私も何か応援出来ればとは思う」

 

 

 ……まさか先生からそんな言葉が。

 

 

「実は、あの音楽祭の関係者に私の知り合いが居る。最初は学長を通して出会った人だから、当然学長も知ってる人だよ。
 もし音楽祭に参加するなら、彼に君を紹介しよう。彼なら、向こうで君に合った勉強の場も見つけてくれるかもしれない」

 

 

 そして教えてくれた『彼』の名前を聞いた時、俺の全身が総毛立った。

 だってその人は、流黎さんが言ってたプロデューサその人だったから。

 

 

-----------------------

 

 

「……って話になったんすよ。まさかこんなトコでつながるなんて」

 

 

 結局、先生との話が済んでから俺はまた店に行った。大概マスターに甘えてるという自覚はあるけど、兎に角話を聞いてもらいたかった。そうしたら答えが見つかりそうな気がして。
 閉店直後の店には堀越も残ってた。そしてこの後は予定も無いからと言って俺の話を聞きたがった。

 

 

「へぇ、広いようで結構狭いもんだな、世間てのは」

 

 

 レジ締めを終えながらマスターが大して驚きもせずに言う。

 

 

「でもそれだったら、その先生からプロデューサさんに頼んでもらえば音楽祭の件と留学を一緒にやれるんじゃないの?」

 

「ううん、それは無理だよ。その人自身は学校と何の関係も無いし、留学するならクラシック専攻で行かなきゃいけない。畑が全然違うんだ」

 

「そうなの?残念」

 

 

 確かにムシの良い話を期待したい所だけど、それは無理。

 

 

「で、どっちにするんだ?」

 

「それなんですよ、問題は」

 

「未だ決めらんねぇか」

 

「はぁ」

 

 

 マスターはひたすら聞き役。ああしろこうしろとは言わない。

 

 

「でもイタリアに行く気は無かったのよね?」

 

 

 そこへ再び堀越の問い掛け。

 

 

「うん。行くならオーストリアだって思ったから」

 

「じゃあオーストリアで何をしたいの?」

 

「え」

 

 

 それは単純な質問。だけど、それで俺の中の何かがパチッと音を立てた。

 

 

「何、って……」

 

 

 音楽だ、それしか無い……けれど。

 

 

「私、音楽はよく分からないけど、マスターがいつも鳥栖珈君の事褒めてるからクラシックも凄いんだろうなって思う。でもマスターと社長さんとであれこれ言いながら決めてた時の様子を見てたら、バンドの曲を作るのも楽しそうにやってたし」

 

 

 あ、マスターんちで弥さんと初めて会った時の事か。

 

 

「それでほら、私が陸上部の話で迷った時に言ってくれたじゃない?『興味持ってる分野なら一度やってみたら良いと思う』って。だから鳥栖珈君も、クラシックに拘らないで他のジャンルの音楽もやってみたら良いんじゃないのかな、って」

 

 

 そっか、今の俺ってあの時の堀越の状態なわけで……。

 

 

(自分の気持ちに素直になったら良いだけなんだも〜ん)

 

 

 柳さんが言ってたのを思い出した。素直に……俺がやりたいのは。

 

 

「……あ、そうなんだ」

 

「え?」「何が?」

 

 

 自問自答が声に出てたらしい。堀越とマスターが同時に聞き返して来た。

 けれど。

 

 

「いえ、すいませんお騒がせしました。話聞いてもらってありがとうございました!」

 

 

 今一瞬、自分の心の裡をよぎった気持ち。その正体を掴みたくて、俺は一気にそれだけ言って店を出る。

 

 

「鳥栖珈君?」

 

 

 ドアを開けた俺の背中に堀越の声。

 それだけでこんなにやる気が湧いてくるなんて。

 

 

「ありがと、堀越。お前、やっぱすごいよ」

 

 

 それ以上言うのは何だか照れくさかったから直ぐに走って店を後にした。

 

 走りながら考える……自分がやりたい事が音楽なのは間違い無い。感じるままに音を受け取り、曲を作っていきたい。そのためにも勉強はしっかりしておくべきだし、学校はちゃんと卒業するべき。でもそこに時間を掛け過ぎるのは勿体ないから、留学は行けても1年だけと決めていた。

 だけど最近のこの展開……俺にも、他にやってみたい事が出てきたって事なんだ。なら、勝手に選択肢を減らさなくても良い?

 

 確かに入学当初、自分はクラシック専攻と決めていた。でもマスターの曲を作るのも、流黎さんから依頼された曲を作るのも楽しい。学校の自由課題みたいに……いや、それ以上に難しいけど面白い。作曲そのものに夢中になれる。

 

 やってみたら良いんだ。今までの道に囚われずに。

 

 

「……うん、とことん回り道してみるか」

 

 

 オレンジ色の街灯の下。いつもの公園で俺は腹を決めた。

 

 

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(お別れだね)

 

(そうね。でも……とても満ち足りた気分だわ)

 

 

 間も無く彼女と永の別れ。

 枕元の右側に流黎さん、左側に俺が付き添って彼女を看取る。それは本人のたっての希望だった。

 

 

(一足お先に、ね)

 

(ああ……また会えるかな)

 

(うん、会える。その内きっと、三人揃って)

 

(そうだね……それで、会えたらまた一緒に演奏するんだ)

 

(勿論よ。私、また詩を書くから……曲はつけてね……)

 

 

 別れ際に、最後の約束。次のスタートを切るための。

 

 

「……よし」

 

 

 着替えてメシ食って、テキストとノートとレポート用紙をカバンに入れる。それからもうすぐ出来上がる例の曲。

 今日の講義は午前の一コマだけ。終わったら速攻で先生に返事を伝えなきゃ。

 

 

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「そうか、もうそれで決めたんだね」

 

「はい」

 

 

 結局、オーストリアの話も断った。戯曲の作曲、これが結局俺の心を一番掴んで離さなかったものだったから。

 

 

「じゃあこちらからはプロデューサの人に連絡を……」

 

「イエ、それも無しでお願いします」

 

「何だって?」

 

「知り合いが呼んでくれてるんです。ドイツなんすけど、音楽祭が一段落したらそっちに移動して作曲の勉強を続けてみたいんです」

 

「知り合いがいたのかね?ドイツに?音楽関係の?」

 

「ハイ」

 

 

 ……嘘は言ってないよな。未だ直接には会ってないけど、流黎さんを通して間接的には知ってるし、向こうは確実に俺を知ってるんだし。

 互いの存在を確認したからには早く会いに行きたい。彼女だって再会を望んでくれてる。

 

 

「本当に良いんだね?」

 

「ハイ。それが自分にとって一番やりたい事だって分かったんで」

 

「そうか」

 

 

 彼女と再会して、流黎さんと三人であの曲を演奏したい。出来るなら彼女が書く詩の全てに音を付けてみたい。

 

 

「うん、何年かかっても良いという覚悟があるなら、それも面白いと思うよ。君ならしっかり、経験を自分のものにしていけるだろう……校内では大きな声で言えないけど、関心があるなら今の内だよ。ジャンルに縛られずに色んな事に挑戦したら良いと思う。特に君はね」

 

「ありがとうございます」

 

 

 ……俺、良かった。担当が烏羽先生で、本当に良かった。

 

 

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「おぅ青磁、お疲れさん」

 

「はよ、ございまっ……す」

 

「ギリギリだな、珍しい」

 

「すんません。ちょっと……先生と話が、あって」

 

 

 話し込んでたらあっと言う間に時間が経って、店に駆け込んだのがバイト開始ギリギリの11時58分。我ながらよく間に合ったなとは思うけど、これだけ息が上がってたら直ぐには仕事に入れないや。

 

 

「まあ落ち着け。今日は柳も未だ居るから大丈夫だぜ」

 

「は、すいません」

 

「はい青磁クン、とりあえず飲んだらぁ?」

 

 

 ぜぇぜぇいってる俺に、柳さんがコップに入れた水をくれる。ああ助かる。

 

 

「はい。い、ただき……ます」

 

 

 一気に飲んでやっと人心地がついた。

 

 

「で、決まったのぉ?」

 

「あ、ハイ」

 

 

 これで伝わる。もう阿吽の呼吸の域。

 

 

「そっか、良かったな」

 

「俺未だ何にも言ってないですけど?」

 

「お前が自分で決めたんだ、それが何よりさ」

 

 

 でも後できっちり聞かせてくれよ?と付け足される。

 

 

「夕方にまた鴇が顔出す筈なんだよ。そン時一緒にな。さあランチだ!」

 

 

 カランコロンと常連さんが一気に入って来て俺達の話は其処で一旦ストップとなった。

 

 

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 14時過ぎ。

 ランチタイムも一段落して、マスターが俺達の分の昼飯を用意してくれる……と。

 

 

「あ、そうだ」

 

「なんスか」

 

「また一曲、頼みてぇんだけど」

 

「あー」

 

 

 そう言えば、こないだちらっとそんな様な事を聞いたなあ。

 

 

「アウトラインは出来てるんすか?」

 

「おー、いつもの感じなトコまではな」

 

「分かりました」

 

「お、即決!ありがとよ!」

 

 

 言うが早いか、昼飯より先に五線譜の入った封筒を渡された。

 封筒に皺が入ってる、暫く前に出来てたっぽい。ひょっとしたら、俺の今回の件が決まるまで待っててくれたのかもしれない。

 

 

「悪ぃけど、年末までに出来るか?」

 

「そうっすね……大丈夫です」

 

 

 マスター手書きのスコアにざっと目を通して俺はそう答えた。前のよりもテーマがはっきりしてる、方向性さえしっかり確認しておけば早く出来上がるだろう。

 

 

「どんな感じで行きますか?」

 

「そうだな、ちょっと大人っぽくてしっとり系で。バラード調だろうな、敢えて言えば」

 

「初めてっすね、そう言うオーダー」

 

「ああ。カバーでは何曲かやってんだけど、オリジナルは確かにこれがお初になるか。俺もまさかと思ったんだけど、柳が歌詞書いてきてさ」

 

「え、柳さんが?!」

 

 

 驚く俺に、新たにぺらりと一枚のレポート用紙が渡された。

 

 

「これ」

 

「はぁ」

 

 

 確かに、彼女の見慣れた丸っこい文字が並んでる。旅人を見送る……女性?の視点で書かれたみたいな内容。確かにバラード調は合いそうだけど、一歩間違うと重くなるかも。

 

 

「取り敢えず、それが1番の歌詞なのよねー。一応3番まで書きたいとは思ってるのぉ」

 

 

 テーブルから食器を下げてきた柳さんが補足してくれる。

 

 

「最後は明るめに終わりたいから、私はバラードじゃなくても全然構わないわよぉ。お任せ」

 

「あ、そうなんすか」

 

 

 あんまり拘りは無いんですね。

 

 

「ま、後は何時も通りってこった。ほれ、食え」

 

「あ、ハイ。いただきまっす」

 

 

 五線紙と詩が書かれた紙を封筒に直し、カウンターの端っこで昼飯を貰った。

 

 

「おはようございます」

 

 

 それから程なくして堀越がやって来た。

 

 

「お、茜ちゃん。お疲れ」

 

「あらぁ、今日は早い目に来れたのねぇ。先にご飯食べるぅ?」

 

「いえ、今日はもう食べて来ましたから」

 

「じゃあ紅茶でも淹れよっか」

 

「ありがとうございます」

 

 

 それから俺の方を向いて『おはよう、鳥栖珈君』と挨拶。

 

 

「あ、おはよう。どう?陸上部」

 

「うん、面白い。難しいなとも思うけど、学校で習う事も結構使えそうだって分かってきたし……」

 

 

 そこまで言って、彼女の目が少し泳いだ。

 

 

「鳥栖珈君のほうは……どう?」

 

「あ、うん」

 

 

 直ぐには答えられなかった。未だ誰にもきちんと話してないからっていうのもあったけど。

 

 

「後で、流黎さんが来るんだって。そン時に話すから」

 

「そう……」

 

 

 うっかりしてたけど、もしかしたら俺って何年も戻って来ないかもしれない訳で、そうしたら彼女とオツキアイらしい事も無い内にいきなり長期の超長距離……恋愛に、なるのかなあ。

 

 あ、でもこれだけは先に言わないと。

 

 

「でも堀越のお陰で、俺、決心ついたんだ。ありがと」

 

「ホント?」

 

「ああ」

 

「そうなんだ。良かった」

 

「うん」

 

「そしたら、お願いなんだけど」

 

 

 お願い?

 

 

「クリスマスの頃って、もう学校冬休みだよね?」

 

「うん」

 

「予定、空いてる?」

 

「あ」

 

「おぅ、クリスマスはライブあるから毎年店は閉まってんだ。茜ちゃんも遠慮無く休んでデート行って来い!ほいよ、シナモンティー」

 

 

 俺が口を開く間も与えず、マスターがそう言って彼女の前に紅茶をでんと置く。

 

 

「デートって……マスター、去年は」

 

「五月蠅ぇぞ、女の子からの誘いを断んじゃねぇ」

 

 

 去年、クリスマスは書き入れ時って……と反論しようとしたらすかさず首を絞められた。マジで呻く俺の耳に『本来こういうのは男から誘うモンだ、アホぅ』と小さく説教が聞こえてきた。

 

 

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「やあ。今日は結構メンツ揃ってるんだな」

 

「おー鴇。待ってたぜぇ」

 

(あー惜しい)

 

 

 16時過ぎ、流黎さんがやって来た。あの後30分早くあがった俺は堀越とクリスマスの予定を決め(やいやい言うマスターが俺と彼女を奥のテーブルに追いやったんだ)、彼女がバイトに入ってからはテーブルを借り切って流黎さんから依頼されてた例の曲の仕上げに取り組んだ。

 彼の到着前に書き上げられるかと思ったけど、あと2小節のところでアウト。

 

 

「やあ、青磁君」

 

「ども、こんにちは」

 

「それ、例の?」

 

「ハイ。後ちょっとで書き上がるんで、そしたら見て貰おうかと思って」

 

「そう。じゃ、その間に俺何か食っとくよ。腹減ってるし」

 

「すンません」

 

「謝んなくても良いさ、楽しみは後にとっとくもんだしね。それより」

 

 

 マスターに『ツナサンドとラテ』と素早くオーダーしてから、流黎さんはもう一度こっちを向いた。

 

 

「決めたんだね?」

 

「え」

 

 

 またいきなり。

 

 

「あの、マスターから何か?」

 

「ん?いや、何も聞いちゃいないけど。君の顔見たら分かる。一昨日と全然違う」

 

 

 そんなに俺って顔に出るのかな。

 

 

「別に君に限った事じゃない、その人の中で何かが大きく変わると顔つきも変わるモンさ。それで?」

 

「あ、ハイ。決めました」

 

「来てくれるんだね?」

 

 

 ほんの僅かずつ先回りしてるかのような彼の言葉。

 

 

「はい。戯曲の作曲、やらせて下さい」

 

「うん」

 

「それでその後、エクルさんに会いに行きたいです。お願いします」

 

「うん、こっちこそ宜しく」

 

 

 俺の答えにニッコリ笑って『ラテ、先にくれよな!』とカウンターに向かう……その彼の横顔を俺はずっと忘れないだろう。

 

 これで俺の来年の予定は決まった。昔の約束を果たす。そして自分のやりたい音楽をやる。流黎さんと出会ってからの一ヶ月余りでもの凄い急展開を遂げた気もするけど、今となってはそれすら当然の成り行きだったと思えるから不思議だ。

 

 すっかり冷めてカップの底に一口分だけ残ってたアメリカンを飲み干して『うしっ』と自分に小さく活を入れ、三人の大切な記念になる筈の曲ラスト二小節に改めて取りかかった。5分で書き上げ、全体を見直して不自然な音や進行が無いかをざっとチェック。

 作業が終わって時計を見ればそれでも30分近く経ってて、流黎さんはとっくに食事を終え、カウンター越しに柳さんと堀越と何やら喋っていた。

 

 

「あ、出来たのぉ?」

 

「はぁ、ひとまず」

 

「じゃあこっちに来て休憩してねー。空も直に戻って来るしぃ」

 

「あ、すんません」

 

 

 声に促されてテーブルの上を片付け五線紙を纏める。堀越がカップを下げに来て『何か飲む?』と聞いてくれる。

 

 

「うーん、何か炭酸」

 

「コーラでも良い?」

 

「うん。氷もレモンも要らない。何なら瓶のままで」

 

「やだ、ちゃんとグラスで出すわよ。流黎さんもいるのに失礼じゃない」

 

 

 そう言うと堀越はぺち、と俺の肩を叩いてカウンターに戻って行った。

 

 

「おぅ書けたか。青磁」

 

 

 マスターご帰還だ。

 

 

「お帰りぃ。今終わったのよぉ」

 

「そりゃ頑張ったな。ほれ、こっち来いよ」

 

「こっちの席ねぇ」

 

「あ、ハイ」

 

 

 呼ばれるままカウンターの真ん中の席に座る。左に流黎さん、カウンターを挟んで真ん前にマスターでその横に柳さん。最後に堀越がコーラを持って俺の右に座った。

 

 

「で、どうするんだ?」

 

「音楽祭の話を受けます」

 

「やっぱりぃ!!」

 

 

 奥さんが歓声をあげ、マスターはガッツポーズ。

 

 

「だと思った。昨日、お前が飛び出してってから喋ってたんだよ、多分そうだろうって。なあ、茜ちゃん?」

 

 

 話を振られて、堀越も頷く。

 

 

「はい。そうだと良いなって思ったし、そうなるような気もして……」

 

「そうそう。なるようになってんだよ、ちゃーんとな!」

 

「これで私もまた、頑張れます」

 

「よおっし!偉いぞ、茜ちゃん!」

 

 

 そしたらお祝いしねぇと、とマスターが盛り上がり、柳さんは早速電話を手にした。流黎さんはその様子を嬉しそうに見てる。俺の事の筈なのに、テレビのワンシーンを観てるような感じだ。何となくぼうっとしてたら、右手にほわっとした感触。

 

 

「……堀越」

 

「頑張ってね。やっぱり寂しいけど、私も頑張る。鳥栖珈君に負けないように」

 

「うん、本当にありがと。忙しいかもしれないけど……遠いけど、音楽祭の時は来てくれる?」

 

「え、それってオーストリアに?」

 

「うん。俺の曲、聞いて欲しい。一緒に」

 

 

 思いのままにそう言ったら、ちょっと潤んでた彼女の瞳がビックリ眼になって俺の右手がぎゅっと握られて。

 

 

「……嬉しい。行く。絶対行くね!」

 

 

 小さく、でもハッキリとした声でそう言ってくれる。

 今日二つ目の、俺から言った初めての、二人の約束だった。

 

 

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20091105-20100518-20181024