小さな棺。

 鳴り渡る追悼の鐘。

 教会に流れ始める「G線上のアリア」。

 

 

 エクルさんのヴァイオリン、流黎さんのチェロ、そして俺のチェンバロでの三重奏が、ゆっくりと空間を満たす。

 流黎さんの右手には包帯。痛まない訳が無いのに、そんな様子を微塵も感じさせない……いや、それ以上に彼は心を痛めている。

 

 

『勝手な御願いですが、あの子への手向けの曲を演奏して頂きたいのです』

 

 

 俺達の目の前で馬車に轢かれて亡くなった女の子。その子の母親が、地面に頭を擦りつけんばかりにして俺達に頼み込んできた。

 

 あの子は、母親に連れられて何度か俺達の演奏会に来ていた。教会を借りて行うプチコンサートだから、気楽に聴ける類のものだった。

 母親は俺達をいつも応援してくれていた、そして子供にも俺達の話をしていたんだろう。彼女の中で俺達は近所のお兄さんお姉さん的な存在になっていき、演奏会ではその小さな手が真っ赤になるまで拍手をしてくれた。

 

 そしてあの時。

 街中で偶然俺達を見掛けたのが嬉しかったんだろう。あの子は道の向こうから『おにいちゃぁん!おねぇちゃぁん!』と叫んで手を振ると、制止する母親の手を振りほどいてこっちに向かって走り出し……そこで。

 

 

「……じ……おい、青磁!!」

 

「!」

 

 

 肩を揺さぶられて目を覚ました……マスターの声。

 

 

「あ……マスター」

 

「目ぇ覚めたか?えらく魘されてたぞ、お前」

 

「はあ……手が」

 

 

 現実に意識が戻り切れてなかった俺は、ぼんやりとそんな事を呟いていた。

 

 

「ん、手がどーした?」

 

 

 マスターの訝しげな問いかけが返ってきて、やっと自分が何を言ったか理解する。

 

 

「あ、イエ……その、手が」

 

 

 咄嗟に他の言葉が出て来ない。

 

 

「何だ、手のお化けにでも追いかけられたか?」

 

「はあ……」

 

「結論急ぐなよ。そんなに慌てなくてもどうにでもなるって。まだリミットまでは時間があるんだ、寝てる時まで悩む事ぁ無ぇ」

 

 

 マスターは、俺が『留学か戯曲か』で悩みすぎてると思ったらしい。心の中で謝りつつ、俺はマスターの勘違いに便乗させてもらう事にした。流石にホントの事は言えない。

 

 

「そうですね……すいません、起こしちゃって」

 

「気にすんな。丁度水飲みてぇなって起きてきたらお前が呻ってたからさ。未だ5時前だからもう一眠りしろ。今度はちゃんと、茜ちゃんの夢でも見とけ」

 

「はぁ……ってちょっと、マスター」

 

 

 うっくっくと笑いを噛み殺しながら、マスターはリビングから出て行った。うっすらと差し込む街灯のあかりに照らされてる時計の針は4時50分。

 流石に外は未だ暗い。寝床になってたソファにもう一度ごろんと横になれば、テーブルの上には昨夜の宴会(?)の名残。

 

 

「そっかあ、堀越と弥さんって……」

 

 

 使ったままの皿やグラスが、それでも一応固めて置いてあるのをぼんやりと眺める……と、さっきと別の方向でドアが開く音がした。

 

 

「青磁君、起きてるのかい?」

 

 

 流黎さんだ。

 

 

「あ、すいません」

 

 

 彼は、ソファに座り直した俺の横に腰掛けるとニッコリ笑った。

 

 

「構わないよ。丁度起きようと思ってたところだから」

 

「え、こんなに早く?」

 

 

 それって睡眠時間、4時間切ってる。俺が酔っぱらってダウンしたのが0時過ぎで、その時はまだマスターも彼もがんがん飲んでたし。

 

 

「……朝型なんですか」

 

「そうでも無いよ。寝起きは良い方だと思うけどね。今日は仕事の都合で7時には出るから、其れまでにシャッキリしようと思ってさ。朝の散歩にでも行こうかな、って」

 

「散歩?」

 

「うん。今日は爽やか~な朝の風景を眺めに行くからね。酒が残ってたら台無しだろう?」

 

「はあ、まあ」

 

 

 確か0時過ぎのアルコールは確実に翌朝まで残るって聞いた事が……まあ、気分の問題って事にしとこう。

 

 

「青磁君は、今日は朝からバイトだっけ?」

 

「あ、ハイ」

 

「そっか、それならもう少し寝ておいたほうが良いな。6時過ぎには空も起きてくるけど……あ、そっちで寝ときなよ」

 

 

 彼が寝ていた、隣の部屋を示される。

 

 

「ちゃんと寝たほうが疲れも取れるし。後で布団畳んでおいてくれたら助かる」

 

 

 こういう所はちゃっかりしてるなあ。いや、良いんだけど。

 

 

「じゃあ、また夕方」

 

 

 言ってソファから立ち上がる。

 瞬間、視界に入ってきた彼の右手がさっきの夢とダブった。

 

 

「……青磁君?」

 

 

 思わず彼の腕を掴んでいた。そんな俺を見下ろす形になった流黎さんが静かに問う。

 

 

「あ、すいません」

 

「……見たんだ?」

 

 

 慌てて手を放す俺に、それだけを返して来る。

 

 

「……はい。さっき、夢で」

 

「そっか」

 

 

 ウン、と頷く気配と同時に彼の右手が俺の頭に載せられた。そのままわしゃわしゃと、ちょっと乱雑に撫でられる。

 

 

「大丈夫。もう分かってるよね?過去は過去、今は今。知る必要があるから知るけど、それらに引き摺られる必要なんて全く無い。それに君は今回、彼女を助けた。たった一人で」

 

「……ハイ」

 

「大丈夫」

 

 

 もう一度そう言って、彼の手が頭から離れて行った。中指に小さなペンだこのある手。

 

 

「夕方店に顔出すから、またその時に思い出話をしよう」

 

 

 じゃあまた、と流黎さんは今度こそリビングから出て行った。ホッとしたのか、睡魔がじわじわとやって来る。とりあえず俺は言われた通りに隣の部屋に移動して、さっきまで流黎さんが使ってた布団に潜り込んだ。

 

 

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「……じ、おい青磁、起きろ!」

 

「うわっはいっ!」

 

 

 ぬくぬくの布団ですっかり熟睡してたらしい。今度は容赦無くマスターに叩き起こされ、俺は慌てて飛び起きた。

 

 

「おっおはようございます」

 

「おはようさん。眠れたみてぇだな、あれから」

 

「はぁ。おかげさまで」

 

「よっしゃ、そしたら朝メシだ。布団畳んで着替えたら出て来いよ。俺らはもう食ったからテキトーにやってくれ。一旦自分ちに戻るか?」

 

 

 聞かれて時計を見る。今が7時半で、朝メシごちそうになって……あ、夕方に流黎さん来るって言ってたよな。昨日は朝に家を出たっきりだし。

 

 

「ハイ。まだ余裕あるンで」

 

「おぅ、それならさっさと食って行って来い。洗いモンは流しに置いときゃぁ良いぜ」

 

「はあ、すいません」

 

 

 至れり尽くせりの待遇に恐縮しかけたけど、よく考えてみれば昨夜は散々話のネタにされたんだ。これでやっとトントンって感じだよ。

 

 

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 今日は店が結構賑わって、良くも悪くもマスターとあまり話す時間が無いまま14時台の最終局面。

 

 

「今日はまた賑やかだったなあ」

 

「ホントっすね。ランチも売り切れましたし」

 

「ワンプレートのシリーズ、好評だよなあ」

 

「やっぱりお得感があるみたいで。お客さんがそんな事を話してるのを時々聞きます」

 

「それなら定番化すっか。ミニスープも付けたら、これからの時期は良いかもな」

 

「この前のミネストローネなんて良いですよね」

 

 

 流れで参加した試食会で俺が一番気に入ったのがミネストローネだ。

 

 

「そうだな。そしたら冬に向けてのPRも出来るか」

 

「ハイ」

 

「こりゃ弥様々だぜ!ワンプレートってのは彼女のお陰だもんなあ」

 

 

 マスターがほくほく顔で言った端からカランコロンとドアベルが鳴り。

 

 

「こんちわー、空」

 

「おぉ、弥大明神!」

 

「……何それ」

 

 

 噂をすれば何とやら。そして後ろからすっかり見慣れた顔がやって来た。

 

 

「やあ」

 

「おー、鴇。早いじゃねぇか」

 

「ああ、思った以上に順調に進んでね。昼過ぎには放免さ」

 

「そりゃ何より。何か食うか?」

 

「そうだね、パスタセットで、ラテ」

 

「承知。弥は?」

 

「んー、やっぱラザニアかな。それとレモンティー」

 

「了解」

 

 

 そんな遣り取りを聞きながら、俺は水とおしぼりを用意して持って行く。

 

 

「こんにちは……流黎さん、今朝はどうも」

 

「うん、お疲れさん」

 

「茜ちゃんももうじき来るわよ」

 

「う」

 

 

 弥さん、予告無しの一撃はやめて下さい。心臓に悪い。

 

 

「はあ。えと……失礼します」

 

「うん、また後でねー」

 

 

 必死で動揺を抑えて下がる俺に弥さんはヘラリと笑って手を振る。そんな様子を流黎さんは楽しそうに眺めてた。

 

 

「ほれ青磁、ケーキセット。4番な」

 

「あ、ハイ」

 

 

 言われてケーキを渡される。目が合うとマスターまでがニヤッと笑った。ああ昼間みたいにもっと客来てくんないかなぁ、マスターが忙殺されるくらいにさ。今のまんまじゃ俺だけ針の蓆状態じゃないか。

 でも世の中そんなに上手く行かない。俺の願いは聞き届けられる事無く、10分、20分と時間がのろのろ過ぎて行った。

 

 そして14時50分。カランと音がして堀越が入って来る。

 

 

「おはようございます、マスター」

 

「おぅ、お疲れさん。今日も宜しくな」

 

「はい!」

 

「茜ちゃーん、お疲れ!」

 

「あ、弥さん、お疲れ様です。流黎さん、こんにちは」

 

「やあ、こんにちは」

 

 

 まるで何事も無かったかのように、彼女はあっけらかんと挨拶をして。

 

 

「おはよう、鳥栖珈君」

 

「あ……おは、よう」

 

 

 どぎまぎしてる俺にも、とびきりの笑顔で挨拶してくれた。

 

 

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「昨日の内に聞いたわよー。彼女から電話来たもん」

 

 

 バイトが済んだ俺は流黎さんと弥さんにそのまま公園まで連れて来られた。流黎さんが買ってくれた缶ジュースを一人一本ずつ持つと、早速弥さんが口火を切る。

 

 

「そうなんですかー……」

 

 

 何とも返せず黙ってしまった俺の代わりに、流黎さんが話を続けた。

 

 

「昨日会った時には彼女も動揺しまくってたけど、もうすっかり落ち着いてたよな?」

 

「うん。1時間くらい喋ってたんだけどさ、最後には何だかスッキリした声だったよ。やっぱり本物が分かるとブレなくなるんだね」

 

「あー確かに」

 

「だからもう茜ちゃんは大丈夫。陸上部の方も随分馴染んで来てるし、明らかに楽しそうだもん。いずれこっちに転向するね、あれなら」

 

「そっか。そりゃ何よりだ」

 

「うん。私も嬉しい」

 

 

 そうか。彼女、自分の道ってのを見つけたんだ。行動が早いし、決断力あるんだなー。すげぇや。

 

 

「でも彼女のあの行動力の源って君だったんだってよ、青磁君」

 

「……はぁ?!」

 

 

 嘘だろ。俺の優柔不断を知らないのか?

 

 

「ちょっとー、そんなに驚かなくても良いんじゃない?」

 

「いや、堀越のほうが行動力凄いじゃないっすか。俺なんて大した事してないし」

 

「何でよ?毎日頑張ってるじゃない。行いの大小なんて関係無い、寧ろ普段から何をしてるかが大切でしょ」

 

 

 1の反論に10の反撃。弥さんの話は止まらない。

 

 

「君が毎日頑張ってるっていうのは彼女に伝わってたの。それに、空だって君を認めてる。私から言わせりゃ、それが何よりの証拠よ」

 

「それはマスターが心の広い人だから……」

 

「君ねえ。いっくら広いって言っても、空の心の素材は風呂敷とかシートじゃなくてザルだから。ザルの網目に引っかからないような奴は認めないよ、彼は」

 

「そんなに言うなよ。彼は慢心や傲慢さとは無縁の人間。それが良い所なんだから」

 

 

 ヒートアップする弥さんを流黎さんが宥めてくれる。

 

 

「でも此処まで来ると、謙虚って言うより鈍感?」

 

「まあまあ」

 

 

 ソコは否定してくれないらしい。

 

 

「……兎に角」

 

 

 一呼吸置いてから、弥さんが説明してくれる。

 

 

「彼女がバイトに入って来た時って、君があらかた教えてあげたんでしょ?怒らずに何度でも丁寧に教えてくれて心強かったって言ってたよ。お兄ちゃんがいたらこんな感じなのかなあ……ってね。

 でも、君が単に優しいだけの人じゃなくて勉強もバイトも頑張る努力家だって分かってきたら、今度は自分も負けてられないって気合いが入ったんだって。負けず嫌いだもんねぇ、彼女」

 

「俺からしたら一方的につっかかられてた気がするんですけど」

 

「君がやんわり躱してたんじゃないの?『何を言っても余裕で受け止められて流されてたから、何だか悔しかった』なーんて言ってたわよ」

 

「そんな余裕、いつだって無いですよ」

 

「じゃあ元々の性格って事かな。やっぱりちょっと鈍いよね、それもカワイイけど」

 

「う」

 

 

 それはどう聞いても褒め言葉じゃ無い……。

 

 

「ともあれ、つい最近まで彼女は君に対してはライバル意識優先。気になってたのはコンビニの店長だったもんね?」

 

「そうらしいです。でも結局は」

 

「片思いで終わっちゃった、と」

 

「はぁ」

 

 

 公園で泣いてた堀越……そう言えば、あれが初めてマスターんちで弥さんに会った日だ。

 

 

「でも社長がマスターんちに連れて来てくれて、そんで弥さんと会えて」

 

「そうそう、あれが転機になったって言ってくれた。失恋したてだからって落ち込んでても仕方ない、それよりも目の前に来た物を掴んでみようって思ったんだって。当然不安はあったけど、それも君の後押しで思い切ってやってみようと思ったそうだよ」

 

「……弥さんの『イケメン揃い』に反応してたと思うんですけど」

 

「あははっ!実際ちょっと思ったらしいよ、新しい出逢いが無いかなあってね。でもあの子、ライブの打ち上げに来たじゃない。あの時に君を見た途端、全部吹っ飛んじゃったんだって!」

 

「え」

 

 

 じゃあ、あの時真っ赤だったのは……。

 

 

「弥、もうそれくらいにしてやったら?茹でダコになってるじゃないか、彼」

 

「何で?もう公認なんだからそんなに照れなくたって良いのに」

 

「俺達がとっくに亡くした初々しさってのが彼には未だあるの」

 

「ま、いいわ。誰が見ても文句無しにお似合いの二人だし」

 

 

 そこで終われば未だ普通の会話なんだろうけど。

 

 

「……それに“今回”は幸せに仲良くやって行けるんだろうなって思える。彼女の成長も見守っていけそうだし、私もホントに幸せ」

 

 

 普通で終わらないのがこの三人の会話。

 

 

「弥さん、思い出してたんですか」

 

「そんなにハッキリじゃないけどね。でもさっき鴇から教えてもらって納得したんだ。最初彼女に会った時は本当に懐かしいと思ったし、彼女を応援したいとも思ったし、何より幸せになってほしいなって思ったもの」

 

「事故の事は……」

 

「うーん。正直、まだピンと来てないんだよね。やっぱ辛い出来事だったから思い出したく無いのかも」

 

 

 そっか……そうだよな。

 

 

「でも、それ聞いて何となく笑っちゃったのもホント。私が鴇と初めて会ったのって、私が事故に遭った時なんだよね」

 

「え?!」

 

 

 聞いた瞬間、俺は反射的に弥さんの足を見てしまった。

 

 

「あ……すいません」

 

「大丈夫、気にしてない。親子揃っておっちょこちょいって事よ」

 

 

 言ってあははと笑う彼女の視線が遠くを見つめた。

 

 その先に見えた姿はその時の彼女自身だったのか、以前の堀越か……俺には分からなかった。

 

 

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「今考えても、あの時よく助かったと思うよ。彼女」

 

 

 秋の日はつるべ落とし。喋ってる内に日が暮れて来て『今日は帰んなきゃ』と言う弥さんを見送った後、俺と流黎さんは例の居酒屋へと足を運んだ。

 早速頼んだビールを片手に流黎さんが話し出す。さっきの続きだと気付いて、俺は黙って耳を傾けた。

 

 

「伴走してた亮司はパニック起こしてたし、俺だって一人で事故現場に遭遇してたらどうなってたか分からない。乗ってたタクシーの運ちゃんが機転を利かせてくれたから何とかなったんだ」

 

 

 タクシーの無線で救急車をすぐに手配出来た事。混乱したままの社長を励ましながら一緒に病院へ行った事。輸血用の血が足りなくて、流黎さんが弥さんに血液を提供した事……。何時もより饒舌な彼の口から語られたそれらは、普通の『出会い』からは余りにもかけ離れていた。

 

 

「……そんな感じで終わったと思ってたんだけど、暫くしてこの街で再会したんだ。実際には其処からだよ、あの二人との付き合いは」

 

「その時、流黎さんの記憶は?」

 

「未だだったね」

 

「……そうですか」

 

「まあそれは置いといて。で、再会した時の彼女はもうリハビリも始めてて気持ちもすっかり前向きになってたんだ。でも亮司のほうがダメージからの復活に時間が掛かってた。自分が伴走でついてたのに、って」

 

 

 助けられなかったっていう……後悔。

 

 

「責任感の強い奴だから、余計に苦しんだと思うよ。彼女に笑顔が戻っても、その脚は元には戻らない。辛かったろうと思う。

 それでも最後には彼女のプラス思考に救われたんだろう。そして、彼女の願いを叶えるのが亮司の目標になっていった」

 

「願い?」

 

「もう一度走りたい、生きてる限りは走り続けたい……っていう願い。彼女にとっちゃ、走る事そのものが喜びなんだ」

 

「……」

 

「亮司も自転車競技では全国でトップレベルだった。プロに転向するチャンスもあったんだ。でも最後の最後で今の道を選んだ」

 

「そうなんですか?」

 

 

 社長ってホントに凄い人なんだ。全国大会優勝は聞いた事あったけど、プロ直前まで行ったなんて。

 

 

「周りから『勿体ない』とか言われたんじゃないんですか?」

 

「そりゃ目一杯言われただろうね。俺も思ったし。でも亮司自身が望んで決めたんだ。其処から時が流れて今がある……青磁君から見て、今の彼はどう見える?」

 

「……幸せそうって言うか。俺なんかが言うのもアレなんですが、満ち足りてるって印象があります」

 

「うん、一緒。俺もそう思うし、他の皆だってそう感じてる」

 

「後悔されてない、ですよね?」

 

「うん。彼はちゃんと『本物』を選んだ」

 

「本物……」

 

「ん」

 

 

 頷いて、焼き鳥を一本。俺に次の言葉を促す事も無く、それをもしゃもしゃと食べる。

 

 

「……流黎さんは」

 

「ん?」

 

 

 聞きたくなった。

 

 

「流黎さんも、本物を選んだんですか?」

 

「んー」

 

 

 直ぐに答えは返って来ない。そうだなーとかどうかなーとかモゴモゴ呟きながら、串の一番下に刺さってた葱まで食べきってグラスに残ってたビールを美味そうに飲んで。

 

 

「……選べたかどうかは未だ分かんないけど、君に会えた事で、本物に向かって進んでるっていう手応えはあるね。“選びつつある”ってトコかな?其れが分かり易いものだったら良いんだけど」

 

 

 ふふふと笑って、今度は湯飲みのお茶を一口。

 

 

「ま、本物なんて人それぞれ違う訳だからね。ある日突然『これだ』って目に見える事もあるだろうし、本物を手にしてるのに気付けない人だっているし」

 

「はあ」

 

 

 手にしてて気付けないってのは空しいなあ。

 

 

「結局、それなりに段階を踏んで行くしか無いんじゃないかな。自分の事も分からなきゃ、自分にとっての本物なんて分かりっこない。何をしたいか、何をやってみたいか、目標は何か……そんな事を色々はっきりさせてく方が先なんだろうね」

 

「社長はもうその段階を通過したんですか」

 

「だろうね。少なくとも、人生のパートナーと自分の仕事と、それらに関する事柄の優先順位ははっきりしてる、あれは凄いと思う。アスリートとしても一人の人間としても凄い奴さ。尊敬してる」

 

「はぁ……」

 

「何て顔するんだよ。君だって凄いじゃないか」

 

「ぇえ?!」

 

「……そんな驚くトコ?」

 

 

 流黎さんがキョトンとしてる。素か。素なんすかソレ。

 

 

「流黎さんにそんな事言われたら驚きますよ!」

 

 

 恥ずかし過ぎる。今ココに穴があったら、入って奥深くまで潜って蓋して二度と出て来ない。

 

 

「何でさ?それだけの才能を持ちながら決して傲らないし」

 

「いやいやいやいや」

 

「ホントに謙虚だよね。誰よりも優しいし」

 

「わーわー」

 

「多分、優しすぎるって周りの人は思うんだろうけど……でも、だからこそ安心出来るんだよなあ」

 

「わぁ……」

 

 

 安心?

 

 

「……誰がですか」

 

「君に会う人は誰でも。でもやっぱ特に、俺」

 

 

 て事は。

 

 

「ひょっとして、従兄弟の時に何か?」

 

「ご明察」

 

 

 言って胸の前で小さく拍手。ああ、これは彼の癖。

 

 

「早くに両親を亡くした俺の事、いつも心配してくれてたんだ。最初に音楽の世界に引っ張り込んでくれたのも、一緒に歌おうと誘ってくれたのも君。

 何かあった時には誰よりも親身になってくれた。君と君の音楽に救われたおかげで、俺の人生後半はとても充実してたんだよ」

 

「……」

 

「当時の君は、依頼を受けて教会音楽をよく手がけていた。生活のためにやむなく、って部分もあったけど、君の曲が地域の人々の気持ちを慰め救っていたのも確かだ。そして『自分には音楽しか無い。音楽一本でやっていくんだ』って頑張ってた」

 

 

 同じだ。こないだ弥さんと流黎さんとで話した時に思った事と。

 

 

「……俺って本当に音楽が好きなんですね」

 

「うん」

 

「自由に音楽をやりたい。音楽でやっていく……それで良いんだ」

 

「そう、ちゃんと君は君の道を進んでる。これからもっと自信を持てるようになると良いね。俺だけじゃない、皆が応援してる。大丈夫」

 

 

>>>8

 


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