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 翌朝は、いつもより1時間以上早く目が覚めた。

 空はもう明るい。外から小鳥のさえずりも聞こえてくる。気合いを入れて起き上がり身支度を整えると、芥は今日提出する書類を今一度チェックした。

 

 朝食を済ませてから、一旦扇の部屋へと足を運ぶ。

 

 

「どうぞ」

 

 

 ノックすれば直ぐに返事があった。大丈夫、元気そうだ。

 

 

「お早う」

 

「お早うございます。もう朝食は済んだんですか?」

 

「うん。いつもの返却分を取りに来た」

 

「でも芥さん、今日は忙しいんじゃないですか?退院手続きとか……」

 

「言う程でもないさ。荷物も大した事ないし」

 

「そうですか、助かります」

 

「昼も来るよ。いつもより少し遅くなるとは思うけど」

 

「いえ、それは大丈夫です。今日から午後に3時間程、葵が来てくれます」

 

「そうなんだ」

 

 

 少し意外だった。そんな話は昨日まで全くなかったから。

 

 

「今日“から”って事は……」

 

「基本的には、毎日の予定で」

 

「試験前なのに?」

 

「試験前だから、です」

 

 

 単なる付き添いと言う訳ではないらしい。

 

 

「勉強の為の勉強は終わりです。今からこれ以上新しい事柄を詰め込むのは大して意味が無いでしょう。残りの時間は、これまでに叩き込んだ物を本人の中に定着させていくほうが有効です」

 

「なら、試験対策はひと段落だね」

 

「先走り過ぎても良くないですけど、今後は入学後をイメージして行くのも良いかな。って。昨日、あれから模試の結果を聞いたんですけど、国内ではトップだったそうです」

 

「え、凄いじゃないか!」

 

 

 彼女の能力に芥は素直に感動を口にした。

 

 

「芥さんが土台を作ってくれたお陰です。面接への苦手意識もかなり薄らいだって彼女も言ってました。それと、彼女の先輩にあたる人が明日一時帰国するそうで、面接対策に一肌脱いでくれるって」

 

「扇も知ってる人なんだ?」

 

「はい。僕の病気の件で赭先生と並んでお世話になってる人です。実はICNの事を彼女に教えてくれたのもその人で、本人は4年前にICNを取得しています」

 

 

 4年前……その人物も、ずっと彼女の事を気に掛けていたのだろう。

 

 

「一時帰国って事は、仕事で?」

 

「そうです。先生のラボの研究にも協力されてます。忙しい方なんですけど、午後だったら1時間くらいは手伝えるよと言ってくれたので、お言葉に甘えて、って事で」

 

「そっか。時間を合わせて此処でやれば、一番ロスが少ないな」

 

「はい。それに、負担にならないなら、僕も彼女の近くに居たいので」

 

「え?」

 

 

 珍しく、彼の頬がわずかに朱に染まった。

 

 

「じゃあ……君も?」

 

 

 朝からいきなりの展開だ。普段は大人びて見えるその顔も、この時ばかりは18歳の少年のもの。

 

 

「はい。彼女のあのひたむきなところとか……いや、やっぱり違いますね。全部、大好きです」

 

 

 素直な、飾り気の無い本心。聞いた側も思わず頬が緩んだ……その時。

 

 

『……私は、芥がいてくれればそれで幸せ。大好きよ……』

 

 

 扇のはにかんだ笑顔に母のそれが重なる。

 彼の言葉に母の声が乗る。 

 

 

「……あ!」

 

 

 唐突に、記憶が蘇った。

 

 

「芥さん?」

 

 

 小首を傾げ、芥に問う。

 然程訝しむ様子も無く、笑顔のまま。

 

 

「思い出したんだ。今……」

 

 

 何故だろう。もう何度も、彼のこの笑顔を見ていたのに。

 

 

「母さんの言葉が、いきなり……」

 

 

 ずっと忘れていた。

 病院の白い空間で、眠るように穏やかな顔しか思い出せなかった。

 

 

『……大丈夫、お母さんは、いつでも芥を応援してるから……』

 

 

 そう。あの日の朝、出かける芥にそう言って手を振った。

 それが生きていた母の、最期の言葉。最期の……笑顔。

 

 

「……どうして、今まで……っ!」

 


 予期せず語尾が震え、片手で口元を押さえる。一気に蘇る記憶と涌き上がる感情に耐え切れず、固く瞼を閉じれば涙が一筋頬を伝った。

 

 

「……優しいお母様だったんですね?」

 

 

 小さく頷く。

 

 

「でも……母さんは俺の為に色んな事を我慢して、やっと全てから解放されるという時に、事故で……俺は何もしてあげられなかった」

 

「芥さんがいつも傍にいる。それが一番嬉しい事だったんじゃないでしょうか。生意気かもしれませんけど、母親ってそういうものだと思います」

 

 

 まるで母の声を一緒に聞いたかのような、扇の言葉。

 

 

「お母様、何と言ってましたか」

 

「……幸せだ、って。俺がいるだけで……」

 

「そうですよね。だから、何もしてあげられなかったなんて事は無いんです。僕たちだって、芥さんから幸せを沢山もらっています」

 

 

 扇の穏やかな語り口調が、芥の心を落ち着かせる。心の底に暖かい想いが満ちる。彼は深く、ゆっくりと息を吐いた。

 

 

「ありがとう……でもその言葉、そっくりそのまま君たちに返すよ。俺のほうこそ、毎日感謝の気持ちでいっぱいだ」

 

「僕たち、幸せ者ですね」

 

「そうだね、本当に」

 

 

 差し出された手を握り返す。初めて会った時よりも細くなった印象のある扇の手は、それでもとても暖かかった。

 

 

「夕方の分は、大丈夫?」

 

「はい。段取りはついてると聞きました。今日はゆっくりして下さい」

 

「ありがとう。そうしたら、また明日」

 

「お願いします」

 

 

 手を振る扇に見送られ、芥は使用済みのキットを持ってステーションに向かった。

 

 

--------

 

 

 手続きを全て済ませて宿舎に着くと、一気に睡魔が襲ってきた。

 寝具が揃えられていたのは有り難かった……布団に潜り込んだ記憶すら無い。

 

 次に目を覚ましたのは、インタフォンの呼び出し音が響いた時。

 

 

「あの……差し入れを」

 

 

 来訪者は葵だった。

 

 

「差し入れ?」

 

「はい。良ければ夕食に」

 

 

 言われて気付く。もう夕方だ、日が随分と傾いていた。扇と会ってから来てくれたようだ。

 そう言えば食糧を何も調達していない。退院したと言うのに、すっかり忘れていた。

 

 

「ありがとう。助かるよ、ウッカリしてた」

 

 

 渡された袋は予想よりも大きく、重い。明日の分まで用意してくれたらしい。

 


「あと、これも……」

 

「鉢植え?」

 

「はい。週に一度水をあげたら大丈夫です」

 

「そっか。それなら俺でも大丈夫かも。ありがとう」

 

「それで、あの……」

 

「ん?」

 

 

 上がり口に差し入れを置いて顔を上げれば、またも思い詰めたような表情の彼女が其処にいた。目が合った途端、怒濤の勢いで謝られる。

 

 

「……ごめんなさい!あまりの事で気が動転してたからなんて、言い訳にならないのは分かってるんですけど!」

 

「え?」

 

 

 寝起きの頭で考える。彼女が謝らなければならないような事があっただろうか。

 

 

「何か、あったっけ?」

 

「え?……」

 

 

 暫しの沈黙。

 自分の謝罪が空回りした葵は、困惑した。

 

 

「だって私、昨日貴方にあんな酷い事を言ってしまって」


「え?何も無い筈だけど」


「何もって……あの……私、貴方に『扇のドナーになれ』って言ったんですよ?」

 

 

 他に説明のしようが無く、遂に直球を投げ込んだ。それでも芥はピンと来なかったらしい。

 

 

「いや、あれは普通そう考えるよなって……ごめん、気を遣わせて」

 

「そんな……貴方に謝られたら、私どうしたら良いんですか」

 

 

 呆れたようにそう言うと、やっと彼女に笑顔が戻った。

 

 

--------

 

 

「皆が何処かで繋がってる、って言う話は前からよく聞いていました。でもずっと、実感が湧かなくて」

 

「うん」

 

「そんな都合の良い話なんて無い。結局は、彼が消えてしまえば何も遺らないんだって……それが怖かったんです」

 

 

 本当ならリビングで話したほうが良いのだろうが、如何せん退院直後。しかも寝起き。中に入ってもらえるような状態ではなかった。玄関でそのまま話し込む。

 

 

「今でも、貴方は彼のお兄さんじゃないの?って思ったりする事はあるんです。だけど兄弟と言うには……変な言い方ですけど、近すぎると感じるのも本当で」

 

「うん。でも別々なんだよなー」

 

「だから彼が言ってたように、貴方は“違う世界の彼”かもしれない、って思うのがまだ精一杯なんです……すいません」

 

「いや、そう考えてくれてる事がとても有難いよ。俺こそ、こんな大事な時期に君に迷惑をかけてしまって」

 

「いいえ。芥さんに謝ってもらったりなんかしたら罰が当たります」

 

「そんな大袈裟な」

 

「大袈裟じゃありません。芥さんのお陰で面接にも自信がついてきたし、集中して勉強に取り組む時間ももらえました。それに……言えないと思ってた自分の気持ちを、彼に伝えられました」

 

 

 ぱっと頬を桃色に染めて、それでも彼女ははっきりと言い切った。その様子は確かに芥から見ても可愛らしいし、ひたむきさがとても好ましい。

 

 

「……言えて、良かったね」

 

「はい。言わなかったら、きっと将来『あの時、伝えれば……』って後悔したと思います」

 

『今だから出来る事をやって、いっぱい笑って、楽しく過ごしたい。そうじゃなきゃ勿体ないでしょ、って話!』

 

 

 彼女に彩の姿が重なる。

 想いは、繋がっている。

 

 

(そうだね……彩)

 

 

「確かに勢いで言っちゃったところもあるんですけど。でもあの後、それまでどうしても分からなかった彼の話がストンと心に入ってきたんです。彼がどれだけ私の事を心配して、ずっと見守ってくれていたかが分かって、心に染みて……自分でも不思議なんですけど」

 

 

 そう言って笑う。

 初めて見る彼女のおおらかな笑顔は、これからの皆の人生を祝福するかのようだった。

 


--------

 

 

 葵が帰り、芥はリビングの椅子に腰掛けた。差し入れと鉢植えの載ったテーブルをぼんやり眺める。

 

 

(何か、凄い日だったなあ……)

 

 

 扇とも葵とも、そんなに長話をした訳では無い。だが話している内に、自分の記憶と感情が一気に溢れ出し、心の何処かで引っかかっていた棘が溶けて流れて行くような感覚は初めてだった。

 それは安らかな微睡みにも似た心地良さを伴い、彼を今も薄い膜のように包んでいた。

 

 ……窓の外が夕焼けで染まる。その色を意識の遠くで感じながら、芥の思考は止まらない。

 

 

『言わなかったら、きっと将来『あの時、伝えれば……』って後悔したと思います』

 

『芥がいてくれればそれで幸せ。大好きよ……』

 

 

 自分もきちんと伝えれば良かったのだろうか。

 扇のように真っ直ぐに、そして葵のように素直に、言葉を重ね何度も伝えていたら、通じ合える部分もあったのだろうか。

 父と。

 全てを父のせいにした。ひたすら力だけで反抗した。当時の自分にはそれが精一杯だった。

 だがもし今、会えるとしたら……。

 

 

 再びインタフォンが鳴り、すっかり室内が暗くなっている事に気付いた。街灯の明かりが室内を微かに照らしている。室内灯を点け急いで玄関へ行くと、赭がニコニコしながら立っていた。

 

 

「あ、先生。こんばんは。お疲れ様です」

 

「こんばんは。調子はどうですか」

 

「大丈夫です。昼に暫く寝ましたし」

 

「それなら良かった。夕飯は?」

 

「未だです……あ、葵さんから差し入れをもらったんです」

 

 

 途端にぐぅと腹が鳴り、あまりのタイミングの良さに二人で笑った。

 

 

「じゃあ、ご一緒させてもらって良いですか?」

 

 

 言いつつ、赭は左手の紙袋をひょいと掲げてみせる。

 

 

「勿論です。散らかってますけど」

 

「大丈夫ですよ、私の所よりは余程綺麗だ」

 

 

 戯けた仕草でははっと笑って『じゃあ、お邪魔します』と靴を脱ぐと、彼はさっさとリビングに移動して紙袋をテーブルに置き、湯を沸かす用意を始めた。

 

 

「すいません、手伝います」

 

「大丈夫、座ってて下さい。それで……ああ、葵さんからの分と、その袋の中身も全部広げてもらえますか」

 

「あ、はい」

 

 

 大丈夫とは言ったが、身体に怠さが残っているのも確かだった。彼の言葉に甘えて、座ったまま言われた物をテーブルに広げる。そうする内に赭がフォークにスプーン、カップに飲み物と手際良く食卓に置いていく。

 

 

「では、いただきましょう。退院おめでとう」

 

「ありがとうございます。明日からまた宜しくお願いします」

 

「こちらこそ。ラボには10時に来てくれたら良いです。スタッフにも伝えてます」

 

「はい」

 

「だいぶ軽くなったようですね?」

 

「え?」

 

 

 唐突な一言に芥は手を止めた。

 グラス片手に彼を見ている赭の、表情はあくまでも柔らかい。空いてる手で自分の左胸をトンと叩く。

 

 

「此処が、ですよ」

 

「ああ、やっぱり先生にはバレバレですか」

 

「表情が随分と穏やかになりました。君の本来の姿ですね」

 

「あの二人のお陰です」

 

 

 赭が一つ、大きくウンと頷く。

 

 

「特に扇でしょう。これまでも、彼と関わった患者さんの殆どが退院を境に大きな変化を見せてくれたんです」

 

「そうなんですか?」

 

「実績は両手に余ります。その内の何人かは、暫くこの部屋で過ごしてから次のステップに進んで行きました」

 

「此処で?」

 

「ええ」

 

「家には戻らなかったんですか?その人たちは」

 

「戻らなかったというよりも、行く宛が無かったんです。身寄りが居ないとか、家に戻れない様々な事情があったりしましてね」

 

「じゃあ、先生はその人達の保証人にも」

 

「勿論、なってましたよ」

 

 

 芥の保証人になったのも、彼にとっては当たり前の事らしい。『趣味みたいなモノ』と言うのはハッタリでも何でも無かったようだ。

 

 

「身体機能の一部を失って生きる気力も無くし、何度も自殺を図った人が、途中から別人のように熱心にリハビリに取り組んで復帰を果たしたり、ね。その人は、今は自分で会社を経営しいます。

 『自分は役立たず』が口癖だった人が、退院するなり此処で必死に技能士の受験勉強をして、そのまま私のラボに入ってきてくれた事もありました」

 

「ラボに?そうしたらその方に、明日会えますか」

 

「いえ、残念ながら現在は他国へ研修に行ってます。でも、戻って来る時には最新の治療技術と医療機器の知識を身につけてる筈なので、楽しみにしています」

 

「葵さんの先輩という方とはまた違うんですね?」

 

「あ、聞きましたか」

 

「ええ、扇から」

 

 

 それを聞いて、彼はまたニコリと笑った。食事の手は互いに何時の間にか止まっている。

 

 

「私が研修医になった頃に出会いました。彼も、扇から多くの影響を受けた人です。あと半年で卒業で、その後は私のラボに入ってくれる事も決まってます」

 

「心強いですね」


「本当に有り難い事です……私は、扇を治す事は出来なかった。でも彼のお陰で、私の周りに一人また一人と、彼と同じ病気で苦しむ人達を無くそうと思ってくれる同志が集まってくれています。
 だから私も頑張れるんですね。彼等と一緒に新しい術式を完成させて、一人でも多くの人々を助けたい。今はこの治療方法を確立させる迄、ひたすら前進あるのみです」

 

 

 彼も、扇からパワーを貰った一人なのだ。

 

 

「これからが楽しみです。色んな事が」

 

 

 ふ、と軽く笑んで赭は食事を再開した。芥にも食べるよう促すと、明日からの予定の確認やラボの説明を進めていった。

 

 

「……おっと、これは長居してしまいました。大丈夫ですか?」

 

 

 気付けば2時間近くが経過していた。

 


「全然どうって事無いです。寧ろ話して頂いて元気になった気がします」

 

「それは頼もしい。では明日。きつかったら午後からでも良いですから」

 

「大丈夫ですよ、有難うございます。おやすみなさい」

 

 

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 芥は翌日から、朝一番に扇の部屋に立ち寄り夕方までラボに詰めるという日々となった。

 

 メインはメッセンジャー的な業務で、構内を移動して他のラボへ書類を届けたり、向こうから書類や検体を預かったりするものだったが、稀にレターや論文原稿の翻訳や校正なども頼まれる。試験勉強を手伝っていたお陰で専門用語にもたつく事は少なく、何でもやっておくもんだなぁと芥は妙な感心をしていた。

 ラボのスタッフは気さくでーーー彼の下で学びたいという研修生が様々な国からやって来ていたのには驚いたがーーー大した苦労も無く、直ぐにラボに馴染んでいった。

 

 

「……それで、此れが現在最新の術式さ」

 

 

 ある時、赭が考案してるという術式のマニュアルを見せてくれたスタッフが居た。

 

 

「トクサ式改訂5案?」

 

「半年前に更新された分だよ。先生は本当にマメに改良を加えてる。此処には5案って書いてあるけど、マイナーチェンジも入れたら軽く20バージョンは行ってる」

 

「それ、数ヶ月に一度は変更してる計算になるよな?通常の業務もこなしながらって……」

 

「そうさ。凄ぇパワーだろ?こっちも追い付いて行くのに必死になるってもんだ」

 

「でもラボ自体に活気もあるし、何より皆が……変な言い方かもしれないけど、楽しそうに見える」

 

 

 芥のそんな言葉に、彼は『ああ、楽しいぜ!』と破顔した。

 

 

「あの病気が治療可能になる日が目の前に来てるんだ。執刀依頼が来れば即座に対応する、そして必ず患者に元気になってもらうってな。皆、扇に『手術成功』の第一報を届けられるのを今か今かと心待ちしてるんだ」

 

 

(それで、術式に彼の名前を……)

 

 

 扇は大切なラボのメンバー。赭やスタッフ達の思いが痛い程伝わって来る。

 

 

「全ては彼のお陰だ。彼が居てくれたから此処まで研究が進められてる。そして最高のスタッフが今も集まって来てる。君も加わってくれて助かってる」

 

「いや、何も大した事出来てないけど」

 

「何言ってんだよ。ニッチな部分をフォローしてくれる人がいると現場の進み具合が全然違うんだ。翻訳も、誰でも出来るってワケじゃないんだし」

 

 

 芥の背をバシッと叩くと、彼は『頼りにしてるからな!』とまたラボの無菌室へ舞い戻って行った。

 

 

---------

 

 

「おはよう」

 

「おはようございます。芥さん」

 

「今日だね、試験」

 

 

 朝から夏の太陽が輝く日。芥が退院してから3週間近く経っていた。

 

 

「そうですね。今朝、元気に出発しましたよ」

 

「此処に?」

 

「はい。立ち寄ってくれました。コンディションも良いと言ってたので大丈夫でしょう」

 

「そっか。扇がそう言うなら間違い無いな」

 

「ええ。芥さんも、今日は落ち着いていられますよね?」

 

 

 模試の日の事を蒸し返されて苦笑した。

 

 

「そりゃもう。あの彼女が受けるんだから信じてあげなきゃ」

 

「そうそう」

 

 

 互いに顔を見合わせて笑い、それから扇が芥の今日の予定を尋ねる……と、何やら慌ただしい足音が廊下から響いて来た。

 ぺたんぺたんと独特な足音の人物と言えば。

 

 

「……扇!」

 

 

 赭が珍しくノックもせず、ばたばたと部屋に入ってきた。

 

 

「おはようございます、先生。来ましたか」

 

 

 扇は全く動じずに挨拶を返す。

 

 

「ええ、隣の州から。15分後に出発です。扇のヘリも準備に入ってもらっています。後から来てくれますか?」

 

「勿論です。芥さんに付き添ってもらいます」

 

「そうですね、それが良い。スタッフに伝えておきます」

 

「待って下さい、先生」

 

 

 いきなりの展開に芥はついて行けない。

 

 

「何が来たんですか?ヘリって?」

 

「執刀の依頼です」

 

 

 芥の方へ向き直り、彼は早口で説明した。頬が明らかに上気している。

 

 

「えっ!?」

 

「扇と同じ病気の患者さんに適合するドナーが現れたと、隣の州の医療センターから連絡があったんです」

 

 

 来るべき時が来たのだ。だがやはり、芥には唐突過ぎて理解が追いつかない。

 

 

「先生、後は僕から説明しておきます。わざわざすいません。連絡ありがとうございます」

 

 

 扇が後を引き継いだ。

 

 

「頼みます、ありがとう。では後で!」

 

 

 赭はそれだけ言うと踵を返しドアの向こうへと消えた。

 

 

「驚かせちゃいましたね、芥さん」

 

「あ、いや。ラボでそんな話を聞いてはいたんだけど……とにかく突然で吃驚だ」

 

「臨床で成功例を作り出すのが当面の目標でしたからね。多分ヘリポートは凄い事になってます」

 

「先生だけ行くのかい?それとも全員で?」

 

「サポートで2人同行する筈です。あとは何かあった時に対応出来るよう、ラボで待機です」

 

「君が行くっていうのは」

 

「以前から、第一例を見届けてくれと赭先生に言われていて。僕もその場に立ち会えれば嬉しいですから。もうすぐバイタルチェックに来てくれる筈です。それで問題無ければドクターヘリで向かいます」

 

「じゃあ、今日の術式は」

 

「勿論、トクサ式ですよ」

 

 

 最高の栄誉ですと、扇はふわりと笑った。然程間を置かず、ラボから連絡を受けた医師がやって来て彼の状態チェックを始める。すっかり顔馴染みになった看護スタッフが、その間に付添い時の注意点を芥に説明してくれた。
 直ぐに言われた通りの薬剤とタオルや他の小物を纏め、芥は一足先にヘリポートへ向かう。其処には既にドクターヘリが準備万端で待機していた。機長らしき人物が芥の姿を認めるなり駆け寄り、荷物の積み込みを手伝ってくれる。

 

 

「通常なら40分程の距離ですが、彼の状態も考慮して速度を落とします。それでも60分もあれば着くでしょう」

 

「分かりました。よろしくお願いします」

 

「こちらこそ」

 

 

 扇がストレッチャーでやって来た。その背は少しだけ起こしてあり、彼の嬉しそうな顔がよく見える。体調も良いようだった。

 

 

「気分はどうだい?扇」

 

「大丈夫です」

 

「よし。じゃあ乗り込もうか」

 

 

 ストレッチャーごと機内に入り、スタッフが慣れた手付きで固定する。芥も指示されたシートに座るとシートベルトを締めた。丁度、扇と互いに斜め前の位置に座ってる恰好だ。

 

 体勢が整った所で扇のバイタルチェックが再度行なわれ、Goサインが出る。ローターの回転音が高まり、機体がふわりと浮いた。

 ヘリポートに待機組のメンバーが走り出して来て、こちらに大きく手を振っているのが見えた。それに応じるようにヘリは上空で一度ゆっくりと旋回し、それから目的地へと機首を向けた。

 

 

「とうとう飛べましたよ、芥さん!」

 

 

 扇がはしゃぐ。シートベルトで固定された身体を目一杯伸ばすと、小さい窓から見える景色を食い入る様に見つめた。

 

 

「そう言えば、空を飛びたいって言ってたよな」

 

 

 生きている間に、その身体で。

 

 

「はい。これで願いが叶いました。すごいなあ。僕の居た場所は、こんな所だったんですね……」

 

 

 うっとりと外を見つめる扇を、芥は黙って見守った。

 無言の時間が過ぎる。どんどん後方へ流れ去って行く眼下の風景を暫く眺め……そして扇は徐に口を開いた。

 

 

「芥さん、僕、貴方にひとつ黙ってた事があるんです」

 

「何?」

 

「これは誰にも言っていないんですけど」

 

 

 芥の背中に何故か冷たいものが走った。彼の笑顔は何も変わらないのに。

 

 

「前に、僕も不思議な経験をしたと言いましたよね。実はその内の一つは芥さんと似た内容なんです。僕も、別の世界で暮らした事があるんです」

 

「え……?」

 

 

 まさか、と思った。確かに自分以外にもそうした人間がいてもおかしくは無いのだろうが。

 

 

「でも、扇はこの世界から消えてた期間なんて無いんだろ?」

 

「はい。でもその世界では、僕は別の人間として生きてました。芥さんは肉体もろともパラレルワールドへ紛れ込んだという事ですけど、僕の場合は精神だけが別次元へ跳んだ……そんな感じです」

 

「そんな事が、あるの?」

 

「芥さんとバージョンが違うだけですよ。たぶん」

 

 

 そう言って扇はまた楽しそうに笑う。だが、さっき芥が感じた冷たい感覚は去ってくれない。

 

 

「その時の記憶って、残ってるモンなのか?」

 

「かなり断片的に、ですね。ぼんやりとしか思い出せない部分も多いです。

 でも、これは確実に言えます……僕は別の世界で別人として生きている時に、芥さんに会ってます」

 

「なんだって!本当に?」

 

「はい。此処で最初に貴方に会った時、懐かしい気がしました。容姿が似ているとかは関係無く、本当に以前に会った事があるって気がしたんです」

 

 

 デジャブではない、朧な記憶。

 

 

「そして、芥さんは他の世界から跳んで来たと言われたので、これは本当に時空を越えて再会出来たのかもしれないって思って……それもあって、色々と貴方の話を聞かせてもらったんです」

 

「だとしたら、何処で会ったんだろ?俺達……」

 

 

 尋ねながら、芥は必死で自身の記憶を探っていた。何人もの、優しかった人達の顔を思い出す。

 

 

「戦争の無い世界でした。少なくとも『その世界の僕』が住んでいた所では争いは起きていませんでした。なので最初は、芥さんの世界でだったのかなと思いました。
 でも、何かが少し違うんです。僕は芥さんと会った事がある。でもその世界は、貴方の話の中に出て来なかった」

 

「て言う事は……」

 

 

 過去では無いと言うことか。

 

 

「そうですね。僕は『未来の』芥さんとお会いしたのかもしれません」

 

「うわ、もう何か……頭ぐちゃぐちゃ」

 

 

 言葉通りに頭を抱える芥に、扇はそれでも楽しそうに話しかける。

 

 

「本当にこの世界はどうなってるんでしょう。もっともっと知りたい事だらけです。いつも、其処に行き着く前に人生は終わってしまうんですけどね。
 それでも芥さんは、一生懸命生きてました。だからきっと大丈夫です。いつか必ず元の世界に戻れます。大変でしょうけど、どうか頑張って下さい。僕の分も」

 

「……扇?」

 

 

 彼の言葉にただならぬ物を感じる。その時、ヘリが突然ぐらりと揺れた。

 

 

「何?!」

 

「ああ……そろそろ、お別れですね」

 

 

 平然と話す扇の姿が傾いた……いや、機体そのものが安定性を欠いている。ヘリのロータ音が異常を知らせ、それと同時に強烈な上向きのGを感じた。落下している。

 

 

「扇!」

 

 

 ストレッチャーから投げ出されそうになった彼の体を必死で抱き抱え芥は叫ぶ。

 落下の感覚は強まるばかりだ。

 

 

「大丈夫ですから。芥さん……どうかお元気で……」

 

 

ーーーまた、会いましょうーーー

 

 

 機体の裂ける大音響に扇の最期の言葉は掻き消され、芥の意識も重力に引き込まれるようにブラックアウトした。

 

 

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