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「おはようございます。扇、芥君」

 

「おはようございます」

 

「先生、葵は無事に行きましたか?」

 

「ええ。朝一番にラボに立ち寄ってくれました。コンディションは良いと言ってましたよ」

 

 

 この日は最後の模擬試験。葵は1週間前から本試験と同じスケジュールに切り替え、更に集中するために扇の身の周りの世話を全面的に芥に頼み、3日前からは部屋にも来なくなっていた。

 

 

「緊張してなかったですか?彼女」

 

「おや、芥君は思ったよりも心配性のようで」

 

「先生、芥さんは試験アレルギーなんですよ」

 

「珍しい体質ですね」

 

「そんなワケ無いだろ、扇」

 

 

 彼女は今、最初の科目に取り組んでいる筈だ。

 

 

「冗談だって分かってますよ。それにしても彼女、本当に落ち着いてました。芥君が全力で応援してくれたのが嬉しいって言ってましたし、今日は良い腕試しになるでしょう」

 

「ここからは体調管理が最優先ですよね」

 

「ええ。私も微力ながらバックアップします。でもその前に、お二人にも試験を受けて頂きましょうか」

 

「えっ?」

 

「血液検査ですよ、芥さん」

 

「……もう、やめてくださいよ」

 

 

 そんな彼の様子に、赭も扇も一頻り笑う。『もう大丈夫だと思いますけどね』と前置きしてから赭は簡単に説明した。

 

 

「芥君のは、退院前の最終検査です。多目に採血させてもらいますから、後は暫くゆっくりして下さい。扇も最近調子が良さそうなので、久しぶりに全項目をさせてもらおうと思います。良いですか?」

 

「はい、お願いします」

 

「では検査キットを持って来ます。此処で出来ますから、少し待っていて下さい」

 

 

 言うが早いか、赭は直ぐにドアの向こうに消えた。

 

 

「芥さん、良ければそっちのソファを使って下さい」

 

「ありがとう」

 

 

 勧められるままに芥は移動し、腰を下ろす。
 ややあって、扇が口を開いた。

 

 

「葵は、芥さんに本当に感謝してました。落ち着いて試験に臨めるって」

 

「ううん、あれは彼女の本来の強さだよ。其れに自分で気付いて無いだけなんじゃないかな」

 

「そうですか。それなら、良かったです」

 

「うん」

 

 

 扇が『良い』と言うのなら、それで良い……次への準備がまた一つ、進んだと言う事だから。

 

 信じる。彼女の強さも、彼の未来も。

 命が見えない所で繋がっている事も。未来は変えられるという事も。

 

 そして赭の、あの言葉。

 

 

『大いなる存在……我々はそれらに畏怖の念を抱きます……』

 

 

 たゆまず知識を得て技術を磨き、人の命と向き合う。

 そんな彼等が、人智を超えた存在に敬意を払う。

 

 それは安易な神頼みなどではなく……畏れ敬いながらも、同時にその御手に抱かれているという安堵感のようなもの。

 

 芥が今感じているこの感覚が、正にそうなのかもしれない。

 

 

-----------

 

 

「先生……山吹さんの最終データと、扇君の定期検査のデータが出たんですが」

 

「どうかしましたか?」

 

 

 模試から一週間ほどが経ち、二人の検査結果が出た。

 スタッフが困惑の表情を浮かべている。

 

 

「こんな事って、あるんでしょうか?」

 

 

 差し出されたデータに目を通せば、彼女が言わんとする事がすぐに分かった。

 

 

「ダブルチェックはしましたね?」

 

「はい。念のため、計3回行なっています」

 

「そうですか……いや、これは凄いですね」

 

 

 ほぅ、と赭は軽く溜め息をついた。

 

 データは、芥と扇が限りなく同一人物に近いと告げていた。二人の血液型は勿論の事、組織型まで100%一致しているのだ。

 

 

「素晴らしい。こんな事に遭遇するなんて、一生に一度有るか無いかですよ」

 

「でもこんな時になんて……皮肉なものですね」

 

 

 彼女が言いたい事は直ぐ分かった。

 二人は『ドナーとレシピエント』としては最高の関係だ。このチームで何年にも亘って研究してきた術式を実践する最大のチャンスが今、目の前にある。

 

 だが実現の条件は満たされない。扇も赭も、これほどまでに真摯に命と向き合っているのに何一つ報われない……そんな彼女の苛立ちも理解出来る。しかし彼は首を横に振った。

 

 

「いや、それは我々が勝手にそう思うだけですよ。恐らく彼にとっては、これも必然なんです」

 

「……それはどう言う事なんですか?」

 

「さあ、何でしょうね」

 

 

 謎かけのような言葉に首を捻るばかりのスタッフに『後はいつも通りで頼みます』と言い置き、赭はデータを持って扇の部屋に向かった。扇にこの事実を早く伝えたかったのだ。

 

 

 

 ドアをノックすると芥が顔を出した。

 

 

「どうも。今、良いですか?」

 

「勿論です。どうぞ」

 

 

 来訪者を知った扇が奥から声を掛ける。

 

 

「珍しいですね、こんな時間に」

 

「今日は早く検査結果を知らせに来たかったので」

 

「お願いします。今も、芥さんとその事を話してたところですよ」

 

 

 どうぞ、と傍らのソファを示しながら扇が笑う。彼が座るのを待ってから、芥はその隣の椅子に腰掛けた。

 

 

「扇のほうは、特に変化はありませんでした。ただ、また少し貧血が出ているので今晩の点滴から対応します。芥君は、全て正常値。外科的にも問題無しなので、完治です」

 

「ありがとうございます」

 

「じゃあ芥さんは正式に退院ですね。住処は確保してくれてますよね、保証人さん?」

 

「勿論です。宿舎に空き部屋があるので、其処を使って頂こうかと。宿舎だと私も近いので、何かと都合が良いですから」

 

 

 よろしくね、と改めて握手を求められた手を、芥はしっかり握り返した。
 葵の試験対策も後一回で終了する。これからは自分の出来る精一杯で彼のチームを手伝いたい。

 

 

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

「そんなに緊張しなくて良いですよ。これまで通りで大丈夫ですから」

 

「そんな事言って、先生の部屋の掃除とかやらせちゃ駄目ですからね」

 

「あ、それを今言うのは反則でしょう!」

 

 

 冗談の応酬で大笑いする。笑いながらも、赭は芥と扇を見比べずにはいられなかった。

 

 

(確かに、良く似ているとは思っていたが……)

 

 

 扇の数年後を思わせる芥の容姿。その印象は、最初に彼を見た時から変わらない……否、此処での生活に馴染むに連れて和らいだ彼の表情は、更に扇と似て来た気さえする。

 

 

「で、本題は何ですか?先生」

 

 

 漸く笑いを収めて、扇が聞く。赭がこの時間にやって来たのなら、ビッグニュースがある筈だった。

 

 

「そうでした。これを見て下さい」

 

 

 二人のデータを扇に渡す。どちらも検査項目が何十と並んでいて、横から覗き込んだ芥は首を捻るばかりだ。対して扇は戸惑う風もなくそれらに素早く目を通していった。
 その表情は次第に晴れやかになり、遂には興奮のためか何時もの青白い肌に微かに朱が差す。

 

 

「凄い!」

 

「そうでしょう?これを伝えたくて来たんです」

 

「……何が凄いんだ?」

 

 

 話が見えず首を傾げる芥に、扇は『ひょっとしたら、って思ってはいたんです』とニッコリ笑った。

 

 

「確証がとれるような話じゃないんですけど。芥さんと僕は、本当に『他人の空似』どころじゃないのかもしれない」

 

「え?」

 

 

 彼の言う意味が理解出来ず、芥は固まる。

 

 

「数値を良く見て下さい。特にこの列。遺伝子レベルまで一緒なんです」

 

「一緒?遺伝子レベルって……?」

 

「つまり芥さんと僕は、データ上は限りなく同一人物に近いって事です」

 

「……まさか?!」

 

 

 やっとの思いで発した芥の言葉は、叫びに近かったかもしれない。

 

 

「そのまさかです。この世界で生きている僕は『もう一つの人生を生きている芥さん』の可能性があります。

 これは単なる偶然の一致かもしれないし、測定値の誤差も考えないといけません。それでも、これほど合致するのは奇跡と言っても良いでしょう。でも、芥さんの世界と僕たちの世界が並行して在るのなら、全く同じ組成の人物がそれぞれに存在していても何も不思議じゃない。

 僕たちは今、互いに『もう一人の自分』と話してるのかもしれません。パラレルワールドなら有り得ます」

 

「君が……俺?」

 

「かもしれないですね、って話です」

 

「先生は、この事を?」

 

 

 赭も芥に笑顔を返した。

 

 

「話は聞いていました。勿論一つの可能性です、断定は出来ません。でも、さっきスタッフからこのデータを見せられた時は、本当に鳥肌が立ちました」

 

 

 こんな場面に立ち会えるなんて自分は本当にラッキーです、と彼はニコニコしながら続ける。

 

 

「こういう時に『大いなる存在』を心底実感します。粋な計らいをされるもんだ、ってね」

 

「……想像を超え過ぎてて、粋どころじゃないですよ」

 

 

 芥の物言いが面白いのか、扇はクスクス笑っている。

 

 

 そこへ聞き慣れたノックの音がした。

 

 

「葵ですね」

 

 

 扇が言うと同時に部屋のドアが開く。赭の姿を認めた葵の表情が強張った。

 

 

「何かあったんですか?」

 

 

 挨拶もそこそこに尋ねる。

 

 

「こんにちは。定期検査の結果を持って来ました。扇も特変無し、大丈夫です」

 

「それだけを言うために、こんなに早く来られたんですか?」

 

 

 間髪入れず問い返した。赭がいつもと違う時間に此処にいる、それだけで彼女は動揺している。

 

 

(……現場に入れるまでに最短でも3年かかるんです。間に合うかどうかさえ分からない)

 

 

 本試前でナーバスになっているから、だけとは思えない。

 彼女が扇に対して持つと言う罪悪感の、その奥には。

 

 

「……葵、こっちに来てくれる?」

 

 

 今にも赭に喰って掛からんばかりの様子に、扇はそっと声をかける。それで幾らか冷静さを取り戻した葵は、素直に従った。

 

 

「扇」

 

「大丈夫です。また後で、お願いします」

 

 

 心配気な赭に笑顔でそう言えば、彼も少し安心したようだった。

 

 

「……分かりました。では、またいつもの時間に」

 

 

 退室する赭を見送り、扇は芥に向き直った。

 

 

「芥さん、そちらの椅子を使って下さい」

 

 

 居ても良いのかと逡巡したが、そう言われれば従うしかないだろう。

 

 

「分かった」

 

「ありがとうございます……葵、芥さんのデータを見て」

 

 

 扇から差し出された用紙を受け取った葵は、時間をかけて丁寧に見た。

 

 

「どうだった?」

 

「……全て正常範囲。これだったら、先生も完治と診断した筈」

 

「その通り。じゃあ、今度はこっちを」

 

 

 すかさず次の用紙を彼女に渡す。扇のデータだ。

 一瞬彼女の手が躊躇ったが、拒否する事は無かった。受け取ると、こちらもじっくりと一つ一つの数値をチェックしていった。

 

 

「……えっ?」

 

 

 何かが引っかかり、思わず声が出る。

 

 

「ちょっと……待って」

 

 

 右に除けてあった芥のデータを再度手に取り、扇のそれと交互に見比べて行く。

 

 

「嘘でしょう?こんな事って……」

 

「そう、こんな『偶然』滅多に無いよ。でも嘘じゃない。葵も言ったよね、僕たちが良く似てるって。似てて当然なんだ、きっと」

 

 

 二人がその容姿だけでなく……本当に組成まで一緒の同一人物かもしれないという可能性。

 

 

「芥さんと扇が、同じ人……」

 

 

 葵が不意に黙り込む。その口元が奇妙に歪むのを芥は見た。笑ったのかもしれない。

 

 

「同じだって言うなら……けて……」

 

 

 独り言の様に小声で発せられた内容ははっきりと聞き取れない。だが声のベクトルが芥に向いているのは分かった。

 

 

「……何?」

 

 

 芥が聞き返す。すると彼女は唐突に顔を上げ、一気にまくしたてた。

 

 

「どうか助けて!お願いします!扇と貴方が同じ人だって言うなら扇を助けてあげて!」

 

 

 その言葉が意味する事は、唯一つ。

 

 

「あ……!」

 

「お願いします……拒絶反応のリスクが無ければ、まだ間に合うかもしれない……貴方だって、元の世界に戻れるかどうか分からないじゃないですか。無駄に違う世界を彷徨うくらいだったら、いっそ……傍にいて……どうかこの世界から扇を消さないで!!」

 


 膝に縋り付かれ、芥は反射的に後退りしそうになった。

 悲痛な叫びに精神を絡め取られる感覚。期待の籠もった彼女の眼差し……其処に映っているのは自分ではなく、未来の扇。

 

 

『モドレルカドウカワカラナイ……ムダニ……サマヨウ……』

 

 

 自分を構成しているものが崩れ落ちていく。

 視界が揺らぐ……力が入らない……。

 

 

 オマエハ、ナニモノダ?

 

 

「待って、葵」

 

 

 扇が口を開き、芥は正気を取り戻す。いつも通りの穏やかな声に、しかし葵は電流に触れたかのように身体をびくっと震わせ押し黙った。

 

 

「芥さんは僕かもしれない。でも、此処の人じゃない。芥さんはいずれ元の世界に戻る。僕らにそれを止める権利なんか無いし、何よりも僕は『もう一人の僕』が悲しむ姿を見たくない」

 

「……」

 

「芥さんにも大切な人がいる。その人が『もう一人の葵』かもしれないよ……自分を悲しませるような事はしないで」

 

「……」

「もう僕にそんなに縛られなくて良いんだ。これが僕の進むべき道なんだから」

 

「……そうじゃない」

 

 

 力無く床に落ちた彼女の両手が、ゆっくりと握りしめられる。

 

 

「葵、僕は……」

 

「そうじゃないの!扇は一人で歩いていってしまう。私はあなたの傍に居たいのに……」

 

 

 決して言うまいと思っていた思いが、抑えきれずに溢れ出た。

 

 

「私は……あなたと一緒に生きていきたい!あなたを失いたくない、あなたが好きなの、大好きなの!」

 

 

(ああ、そうか。君は……)

 

 

 芥は漸く理解した。

 彼女が身の回りの世話を買って出たのは、確かに罪悪感からだったのかもしれない。しかし時と共に扇への想いは深まり、恋心へと変わっていった。

 ずっと自分と共に生きてほしい……だが彼女はその想いを内に秘め、ひたすら扇に寄り添ってきたのだ。

 

 

「……ありがとう」

 

 

 暫くして、扇が言葉を返す。

 

 

「君がそこまで想ってくれていると知って、僕は本当に嬉しい……だからこそ聞いて。どうか、僕からも言わせて」

 

 

 す、と息を継ぐ。そしてきっぱりと言い切った。

 

 

「生きて、葵。僕の分も、君が」

 

「……」

 

 

 これは、遺言。

 

 ……室内が長い静寂に包まれた。葵は唇を噛みしめ、微動だにしない。

 

 

「せっかく元気になったんだから、永く生きて。君にはこれからやるべきことがある。これからもっと沢山の可能性が君を待ってる。それを一個でも多く実現させて。以前僕に話してくれた夢も。それが僕の願い」

 

 

 触れれば消えてしまいそうな、儚い彼の笑顔。

 

 

「僕は未だこうして生きてる。データも見てくれた通り安定してる。今すぐ何かが起きるなんて事は無いし、僕は何も諦めちゃいない。大丈夫だよ」

 

 

 葵が微かに溜息をつく。少しずつ落ち着きが戻って来たようだった。それを認めた扇が、話題を変える。

 

 

「……宇宙の始まりの話、前にした事があるよね?」

 

「ええ。この世界がどうやって出来たかっていう話……」

 

「芥さんの世界にもありますか?」

 

 

 急に話を振られて、芥は慌てて記憶の片隅から情報を引っ張り出した。

 

 

「えっと……聞いたことはある。宇宙の始まりが超高密度の一点、の大爆発からだっていう説……だったと思うけど」

 

 

 ビッグバン宇宙論について熱弁を振るう友人の話を、欠伸を噛み殺しつつ最後まで聞いた事を思い出す。正直、そういう方面は得意ではないが……いずれにせよ、想像するだけで気の遠くなる話なのは間違い無い。

 

 

「それですね。一緒ですよ」

 

 

 しどろもどろな芥の答えにも扇は嬉しそうに笑った。

 

 

「その話、芥さんはどう思います?」

 

「よく分かってないけど……とんでもない事」

 

「そうですね。けれど『絶対に有り得ない事』とも限らない」

 

「じゃあ、扇はその話が本当だと信じてる?」

 

「そうだと面白いな、とは思ってます。それだと『元はみんな同じ一点だった』っていう事になりますから」

 

「あ……確かに」

 

「でしょう」

 

 

 素直に頷く芥と、ひと言も聞き逃すまいと耳をそばだてる葵。

 二人に語りかける扇は、講義でもしているかのようだ。

 

 

「何も区別されていなかった一つの『何か』から世界は広がり、分岐を繰り返して今の僕たちが集っている。だからこそ、僕たちはこうして会えたんだと思うんです。
 元は一緒だから。存在は別々でも、見えない何かで繋がってるから……過去も、未来も、芥さんの世界と僕たちの世界も」

 


『こういう時に『大いなる存在』を心底実感します……』

 

 

 芥は赭の言葉を思い出した。

 

 

「大いなる存在、か」

 

「そう、先生が時々言ってますよね。皆が神と呼ぶ存在や、宇宙意思と言われる物と同じなんだろうなと、僕なんかは思ってます」

 

 

 扇が二人を手招きする。近寄れば、彼は芥と葵の手を取って自分の両手で包み込んだ。

 

 

「僕たちは見えない絆で繋がってる。姿形は違っても皆が自分の分身であり、自分は皆の分身。だから、自分を大切に思い自分の人生を目一杯生きる事が、周りの皆を大切にする事にも繋がると、僕は考えています」

 

「……だからなの?」

 

 

 葵の手に力が籠った。

 

 

「そうだよ。君が君の人生を精一杯生きる事が、僕の命を何倍にも生かしてくれる事になる。僕だけじゃない、君に命をくれた人や芥さんの命さえも、生かしてくれるんだ。
 ICNとして人の命を救う事も、とても大切で尊い事。だけどそれ以前に、君が『山鳩 葵』という一個人として輝いて生きている事が素晴らしい事なんだ。だからこそ、君には君のやりたい事をやってほしい」

 

 

 再び室内が静かになる。其処に院内放送が流れた……芥への呼び出しだ。

 

 

「退院手続きについてでしょう。直ぐに行った方が良いですよ」

 

「……そうだね」

 

 

 葵は何も言わない。しかしその様子は明らかに変化していた。

 彼女は今、彼の言葉を全力で考え感じ取ろうとしている。

 

 芥は静かに立ち上がり、入り口へ向かった。

 

 

「じゃあ、また後で」

 

「はい。芥さん、ありがとう」

 

 

 その言葉には頷きで返し、芥は静かに扉を閉めた。ナースステーションへと足を向ける。廊下に響く自分の足音を遠くに聞きながら、芥は彼の言葉を反芻した。

 

 

『見えない絆で繋がってる……皆が自分の分身であり、自分は皆の分身……自分を大切に思い自分の人生を目一杯生きる事……』

 

 

 死に囚われる必要は無い。今生きているという事を大切に、悔いなく笑顔で生きてほしい。

 

 それは、彩の父親も願った事。

 

 

---------

 

 

 退院手続きの説明を受け、書類を自分の病室で仕上げている内に日が傾いて来た。時計を見れば、扇の点滴を受け取りに行く時間。

 

 

「……行くか」

 

 

 書類を封筒に戻し、芥はいつもの窓口へ顔を出す。点滴は一つ追加されていた。増血剤だろう。

 

 赭のメモが付いていた。

 

 

『20時に回診します。点滴はその時に行います』

 

 

 芥へのメッセージ。普段よりは遅くなると言う事だろう。

 薬瓶を抱え、彼の部屋へ向かった。ノックをすれば、少し間を置いて『どうぞ』と声がする。それを確認してからドアを開けた。葵の姿は無い。

 

 

「寝てた?」

 

「そうですね。ちょっとうたた寝してたみたいです……大丈夫、気分は良いですから」

 

「それなら良かった。先生から、20時に来るって。点滴もその時に」

 

「ありがとう。どうぞ其処に」

 

 

 勧められるままに腰を下ろし、気になっていた事を尋ねる。

 

 

「葵さんは?」

 

「もう大丈夫です……伝わったと、感じました」

 

 

 そのひと言に、芥はホッと息を吐いた。

 

 

「良かったな」

 

「芥さんのお陰です。居てくれて本当に嬉しかったです」

 

「でも俺、彼女に何もしてあげられなかったなって……」

 

「そんな事ありません。こうして時間を共有出来ているだけでも、本当に希有な事なんですから」

 

 

 交わる筈の無かった、互いの時間軸。

 本来なら会う事など叶わぬ……もう一人の自分。

 

 

「……扇、さっきの続きみたいになるんだけど」

 

「何ですか?」

 

「本当に、君と僕は同じ人間なのかい?」

 

「さあ、どうなんでしょうね」

 

 

 声が震えそうになるほど緊張して質問したのに、扇の答えは明日の天気を聞かれたかのような軽さ。Yes か No で返ってくると思っていた芥は、ついついぼやいた。

 

 

「扇にそう言われちまうと困るんだけどなー」

 

「其処は僕も知りたいところなんですけど」

 

 

 芝居がかったしかめ面でぼやき返されて、芥は苦笑する。

 

 

「もう降参。何が何だか、だ」

 

「いずれにせよ確かめる術なんて無いんです。それでも、心が納得するなら良いんじゃないでしょうか」

 

「……そう言うモン?」

 

 

 今度は扇が苦笑した。

 

 

「そうだと思っています……もしかしたら、葵に話した事も詭弁以外の何物でも無いのかもしれません。でも、こんな事は理屈や言葉では伝え切れない。それでも、彼女なりに納得してくれたら」

 

「納得、かぁ」

 

「芥さんも実際に、別の世界に来てるじゃないですか」

 

「そうなんだよな。原因も理屈も分かんないけど」

 

「だからそう言う場合は、目に見えない何かの影響だって思って丸く収めておくのが良いんじゃないかなって」

 

「どこも丸く収まってない……」

 

 

 芥の弱々しい反論はドアをノックする音に消された。続いて『入りますよ』と赭の声。予定より早く業務が終わったらしい。葵の件も気がかりだったのだろう。

 

 

「どうぞ」

 

「やあ、こんばんは。葵さんは?」

 

「戻りました。もう大丈夫です」

 

「それなら良かった。じゃあ点滴をしましょうか」

 

「はい、お願いします」

 

 

 すぐに横になって腕を出す。赭は点滴の準備をしながら芥に話しかけた。

 

 

「退院は明日ですね」

 

「はい。11時と聞きました」

 

「宿舎の場所は分かりますか?」

 

「大丈夫だと思います。さっき見取り図も頂いたんで」

 

「そうですか。明日は私が手術に入る日なので付き添えなくて申し訳ありません。部屋は自由に使ってくれて構わないので、午後はゆっくりしてください」

 

「有難うございます」

 

「退院の日は患者さんも忙しいですからね。芥君も今夜は早く休んだ方が良いと思いますよ」

 

 

 退院直後の体が思ったより疲れ易いのは、以前の経験から知っている。勧めに従って、芥は自分の病室へ戻る事にした。

 

 

「じゃあ失礼します。おやすみ、扇。先生も、お疲れ様です」

 

「ああ、君もね」

 

「おやすみなさい」

 

 

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