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「おはようございます。早速来てくれたんですね!ありがとうございます」

 

 

 翌朝扇の部屋に出向けば、満面の笑顔で迎えられた。

 

 

「俺のほうこそ。退院後に放り出される心配が無くなった」

 

「本当に?迷惑じゃなかったですか」

 

「勿論さ。ただ、俺で役に立てるかどうか分かんないけど」

 

「……葵の事は聞かれましたか?」

 

 

 やはり、彼女の事が心配のようだ。

 

 

「ああ。先生の考えも教えてくれたよ」

 

「そうですか。なら、話は早いですね」

 

 

 一呼吸置いて、彼は続けた。

 

 

「もうご存知と思いますけど、僕は手術を受けるつもりはありません。このままこの人生を全うします。実際、延命措置もしないようにとお願いしてあります」

 

「それは何故?」

 

「少しでも良い状態でこの体を研究に使ってもらう為です」

 

「じゃあ、献体を?」

 

「まあ、そうですね。先生も全て承諾してくれてます」

 

 

 扇がチームメンバーとして最期に出来る協力だ。

 

 

「ただ今のままだと、彼女がどうなるか分からない。折角元気になったんだから、彼女はこれからもっと幸せになってほしいし、前を向いて歩いてほしい。それが、彼女の一部となったドナーさんの気持ちに応える事にもなると思うんです」

 

 

 その点は芥も同感だ。

 

 

「俺にしてほしい事は、何?」

 

「先ずは僕の話し相手に。芥さんの事をもっと教えてほしいです。芥さんの世界の事や、今まで体験して来た事とか」

 

「うん」

 

「それから、たまにで良いので葵とも話してほしいんです。もしかしたら芥さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれませんけど」

 

「それは無いんじゃないかな。でも、彼女とは何を話せば?」

 

 

 昨日の彼女の様子から行くと、最初が難しそうだと感じる。

 

 

「それこそ雑談で構いません。彼女の話を聞いて、芥さんが話したい事を話してもらったら十分です。僕や先生以外の人と新しく交流を持ってほしい、って思っているので」

 

「彼女の視野が広がる切っ掛けになれば、っていう感じかな」

 

「そうですね。自分のすぐ近くにも、未だ知らない色んな人や物事があるって気付いてくれたら嬉しいです……実の所、彼女も芥さんの存在はかなり気になっているみたいで」

 

「そう?」

 

 

 ちょっと意外だ。

 

 

「ええ、昨日の夕方話してたんですけど。僕と貴方の姿が似ていて、内心驚いていたって言ってました」

 

「あー、それ」

 

「そんな人から僕と彼女自身が似ていると言われて、もっと驚いたって」

 

「……嫌って言うワケじゃ無かったんだ?」

 

「驚いただけです」

 

 

 だから安心してくださいね?と言われて、胸の小さな閊えが下りる。

 

 

「分かった。ぼちぼちで行ってみるよ」

 

「ありがとうございます。じゃあ今日は、芥さんの話を聞かせて下さい」


「そうしたら、昨日の続きから」

 

「長そうですね?」

 

「そこは覚悟してくれよ」

 

「はい、もちろん!」

 

 

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「芥さん、やっぱり波瀾万丈ですね。僕の想像を超え過ぎてる!」

 

 

 芥の話は時々横道に逸れながら、一日2時間で3日かけて漸く終わった。その間の扇は終始笑顔で、好奇心いっぱいの目を輝かせ食い入るように彼の話を聞いていた。

 

 

「いや、もう必死さ。本当にそれだけって感じ」

 

「でも強運の持ち主なのは間違い無いです。ヒーローになれるレベル」

 

「どーいうレベルだよ、それ」

 

 

 ぼやきのような芥の突っ込みに扇が笑う。つられるように、彼も声をあげて笑った。

 笑って、心が暖かくなる……こんな事は、本当に久しぶりだ。

 

 31に居た時でも、仁や統と笑い合うことくらいはあった。しかし何かに追い立てられるような焦燥感が常につきまとう極限状態の中、心の底から笑うのは到底無理だったなと思い起こす。

 

 ……以前の自分はどうだったのか。ふと考えた。

 

 

(彩とおばさんはよく笑ってたけど……)

 

 

 と、部屋のドアがノックされた。

 

 

「葵ですね」

 

 

 扇の言葉が終わらない内に葵が入ってきた。花と、夕方の点滴用の薬瓶を抱えている。芥の姿を認めると、一旦立ち止まり軽く会釈した。

 

 

「こんにちは。楽しそうね?扇」

 

「うん、芥さんの話最高。全部聞いたから、これで葵にも教えてあげられるよ」

 

「どんな?」

 

「未だ内緒」

 

 

 そんな扇の言葉に首を傾げながら、ちらと芥の方を見る。

 

 

「まさか、本当に親戚の?」

 

「違うよ。でも他人の空似っていうだけじゃないかも」

 

「え?」

 

 

(……は?)

 

 

 奇妙なひと言。

 

 

「まさか、“また”異次元談義?」

 

「うん、そんなとこ」

 

 

 扇のこうした話しぶりにも、彼女はすっかり慣れっこらしい。内心で驚いている芥よりも反応は薄めだ。

 

 

「そうそう、芥さんは外国語が得意だそうだよ。折角だから教えてもらったら?」

 

「え、本当に?」

 

 

 寧ろこっちのほうが重要らしかった。三度、芥の方を振り向いたその顔は、さっきよりもキラキラしているように見える。

 

 

「ホント。此処でやってくれたら僕も一緒に学べるから一石二鳥だし、丁度良いんじゃないかな」

 

 

 31での顛末を聞いて、これは良い口実になると思ったのだろう。

 

 

「……あの、どの言葉が得意なんですか?」

 

 

 葵からの初めての質問。芥が答えれば、彼女は『是非お願いします!』と即座に頼み込んできた。

 

 

「試験で必須なんです。どうしても夏までにマスターしないと駄目なので!」

 

「試験?」

 

「そうなんです。筆記と面接で」

 

「面接かぁ……」

 

 

 芥の気弱が顔を出す。そもそも『教える』というのはあまり得意ではないのだ。ましてや面接とか、どうやって。

 

 

「えーと、面接ってのは俺ちょっと苦手なんだけど?」

 

「芥さんの話から行けば、全然大丈夫ですよ。会話する時間を増やすほうが先決ですし。それに、面接のポイントもある筈ですよ。それ、先輩から聞いているよね?葵」

 

「ええ」

 

「そうしたら、先ずそれを芥さんに伝えてあげて。過去の問題集とか」

 

「そうね。そうする」

 

「えーと、扇」

 

「大丈夫ですよ。芥さんが受験する訳じゃないですし」

 

「う」

 

「じゃあ早速明日から。良いよね?葵」

 

「はい。芥さん、宜しくお願いします」

 

「あ、うん」

 

 

 あっと言う間に話は決まった。赭に負けず劣らずのフットワークの軽さに舌を巻く。突然の展開にぼぅっとなりながら『また明日』と挨拶し、芥は自分の病室に戻る事にした。

 

 

(……ま、良いか。これで彼女と話せるようにもなったって事だし)

 

 

 扇の手際には敵わないなと苦笑する。早速、赭に辞書を借りようと決めた。現役の受験生が相手だ、ウォーミングアップをしておかないと。もしかしたら、それでも厳しいかもしれない。

 

 

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 翌日、芥は初っぱなから彼女の能力の高さに舌を巻く事になった。

 

 

「凄い。筆記は俺よりよっぽどいけてる。日常会話だって何も問題無いじゃないか」

 

 

 芥に褒められて、葵が照れる。

 

 

「本当ですか?」

 

「ああ、ホント。ここまで出来てるなら余裕な気もするけど」

 

「ありがとうございます……でもやっぱり、扇と練習するのとは全然違いますね」

 

 

 ね?と話を振られて、扇が頷いた。

 

 

「僕のは机上の学習の域を出ませんから。実践的じゃないんですよ」

 

「またそんな、謙遜」

 

「やだなあ、本当ですってば」

 

 

 そう言って扇は笑う……瞬間、芥は思わず眼を瞬かせた。
 

 

(……母さん!?)

 

 

 一瞬の光のいたずらが見せたそれは、紛う事なき母の笑顔。

 

 

(あの笑顔……やっぱり、もう一度見たかった。母さんに会いたかったな……)

 

 

 突然の彼女の死。

 あれから10数年が経過している。とっくに気持ちの整理をつけていたつもりだったが、自分は未だ小さくも深い傷を抱えていたのかと気付いた。

 だが哀しくはなかった。寧ろ、心が温かくなっていくのを感じる。

 

 

「……たさん?」

 

「え?」

 

 

 葵の声で、芥は我に返った。

 

 

「大丈夫ですか?まだ調子が……」

 

「あ、何とも無いよ。ちょっとぼーっとしてただけ」

 

「本当に?私のせいで無理されてませんか?」

 

「大丈夫。それより、久しぶりに頭をフル回転させてるからそっちの方がキツい」

 

 

 冗談めかして返すと、葵の表情が漸く和らいだ。確かにまだ怪我人だから、彼女が自分の体調を気遣ってくれるのは当たり前だろう。

 しかし、“私のせい”というひと言がどうしても気になる。

 

 

「一旦休憩しましょうか。お茶でも淹れましょう」


「あ、私が」

 

 

 すかさず葵が立ち上がる。そう言えば昨日頂いたケーキがあるの、とミニキッチンへと向かった。

 

 

「扇の好きなパイも入ってるわよ」

 

「嬉しいな。あといくつある?」

 

「3つ。タルトとかもあるわ」

 

「じゃあ、芥さんには好きなの選んでもらって」

 

「ええ。ちょっと待ってて」

 

 

 何気ない会話。その一瞬一瞬を、扇は大切に生きている。

 

 

『僕は手術を受けるつもりはありません。このままこの人生を全うします』

 

 

(……彩のお父さんも、そうだったのかな)

 

 

 彩の父親は、彼女が高校生の頃に病気で他界したと聞いた。父娘とても仲が良かったそうだ。そんな優しい父親だったら、亡くなって10年近く経っても寂しいのではと、つい尋ねてしまった事がある。

 

 

『珍しいわね、そんな事聞くなんて』

 

『あ、ゴメン』

 

『別に謝んなくても。確かにちょっと寂しくなる時はあるし……でも』

 

『でも?』

 

『お父さんと約束したのよ。くよくよしないで笑って暮らすから、って。そうじゃないとお父さんも安心して天国に行けないじゃない?』

 

『天国かぁ……俺なんか地獄に行きそうだけど』

 

『もう、またそうやって人の話の腰を折る!』

 

 

 彩は、芥のネガティブ思考には容赦無かった。みぞおちに一発入れられた、あの衝撃を思い出す。

 

 

『天国も地獄もあるかどうか分かんない。でも折角ならそうやって生きていきたいし、お父さんもそうして欲しいんじゃないかって思うの。しかめっ面して泣いて歯を食いしばって生きるよりも、今だから出来る事をやって、いっぱい笑って、楽しく過ごしたい。そうじゃなきゃ勿体ないでしょ、って話!』

 

 

 彼女の父親は、遺される二人が悲しまないようにと思ってそのような約束をさせたのでは……芥は当時、そんな風に思っていた。

 だがそれは間違いなのだろう。今なら何となく分かる。

 

 

 扇は既にこの世を去るまでの段取りをつけている。自分の生を受け入れ、より有意義に最期まで生ききろうと決めている。

 

 

『お父さん、よく言ってたわ。「メメント・モリ」って』

 

『何だっけ、それ?』

 

『「死を想え」とか「死を記憶せよ」とか、そんな意味。ちゃんと死を想う事が出来れば、今こうして生かされている事がどんなにステキな事か分かる。そして“今を楽しく過ごそう”と思える、ってね』

 

 

 無闇に恐怖に囚われる事無く『その時』までを見据える。

 彼女の父親は、もしかして扇のような心を持った人だったのかもしれない。

 

 ……母は、自分の人生に納得出来ていたのだろうか。

 

 

「そうしたら、芥さんには面接を集中して鍛えてもらえば良いね。筆記には合格宣言も出た事だし」

 

 

 扇の声で芥は意識を『今』に戻す。

 

 

「でもチェックはしてもらいたいわ。確かに心配なのは面接のほうだけど」

 

「じゃあ筆記は過去問をくり返し解いて、芥さんに予想問題のチェックをしてもらう。どうですか?」

 

 

 話を振られて芥も頷く。

 

 

「そうだね、それが効率も一番良いと思う。俺、昔は過去問だけで乗り切ったし」

 

「ほら、経験者曰く」

 

「そうね、先輩の言葉は重みがあるわ」

 

 

 葵はクスッと笑い、『じゃあそうします』と応じた。

 

 

「ところで、何の試験を受けるの?医療関係ってのは分かるんだけど、どんな資格があるのか俺、まだ分かってないんだ」

 

 

 改めて聞いてみる。出て来る専門用語からだいたいの予想はつくが、困った事にこの世界の制度が分からない。見当違いの事をやってしまったら意味が無い。

 

 

「〜国の看護専門大学への編入試験なんです」

 

「じゃあ、留学?」

 

「ええ。もちろん此処でも看護の資格は取れます。でも、国際ライセンスじゃないから」

 

 

 ハイレベルな語学力をつけようと彼女が必死になる理由が分かった。

 

 

「この国では取れない資格なんだね」

 

「そうなんです。確かにこの病院も国内ではトップレベルなんですけど、最先端の治療を行えている訳じゃないんです。それで、ICN……国際資格の看護免許の事ですけど、それを取りたいと思って」

 

 

 それらの全ては扇のため。そして助けてもらった自分の命は、今も病気に苦しむ人々を助ける為に使おうと決めている。

 

 彼女の『闘病』は、未だ終わらない。

 

 

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 次の日は扇が定期検査の日だった為、試験勉強は芥と葵の二人で開始した。先ずは面接に向けての策を練る。

 

 

「面接は、一対一?」

 

「一次は一対一です。二次は完全にディスカッション形式で……これが、前に受験された先輩から教えてもらった内容を書いたノートです」

 

「凄いな。これ、君が?」

 

「先輩の話を写しただけですけど」

 

「でも、これは根性要っただろうな……あ、この辺りとか、使えそうだ」

 

 

 言うと、芥はメモを取り始めた。その間、葵はノートに目を落とす振りをしながら彼の横顔を見つめていた。

 

 

(本当に、扇とそっくり……)

 

 

 体格の差はあれど、扇も青年になればこんな感じなのだろう……生きていてくれたなら。

 

 

「……私の事、聞きましたか?」

 

 

 窓から入り込む風が、暖かく彼の前髪をゆるりと揺らす。その動きに誘われるように、葵の口から言葉が滑り出た。

 

 

「……うん。先生と扇からそれぞれ」

 

 

 彼女の方に向き直り、芥はゆっくり頷いた。

 

 

「そうですか」

 

「ごめんな、勝手に」

 

「え?」

 

「やっぱり嫌だろ?知らないところで自分の事を話されてたら……」

 

「いえ、それは別に良いんです」

 

 

 葵は慌てて首を横に振った。正直、彼からどんな反応が来るか不安だったが、まさか謝られるとは思っていなかった。
 

「先生や扇が先に話したんだと思います。芥さん、他人の事をあれこれ詮索するような人には見えないですし」

 

 

 何とも返せず、芥は曖昧な笑みを浮かべるのがやっとだ。

 

 

「でもあまり気分の良いものじゃないって思うし……」

 

「芥さんになら話してもらってても全然構わないです。それに私も芥さんの事を扇から聞かせてもらってて……ごめんなさい」

 

「何で?君こそ謝る事なんて全然無い。それよりも、俺をこうして受け入れて貰って感謝してる」

 

 

 今は本当に行く宛てが無いからね、と芥は笑った。そんな彼から伝わって来るのは、今ここに流れている風と同じ暖かさ。そして優しさ。
 辛さや悲壮感が感じられない。扇の言った事は本当だろうかと逆に疑ってしまうほどに。

 

 

「芥さん、本当に別の世界から来たんですか?」

 

「そう、それも二つ目。戻り損ねたんだ」

 

「辛くはないんですか?」

 

 

 その瞬間、芥の瞳が微かに揺らぐのを認める。酷な問いをしてしまったと狼狽える彼女にしかし、彼はゆっくりと一度目を伏せ……再び瞼を上げた時には、さっきの笑顔に戻っていた。

 

 

「そうだね、辛く無いと言ったら嘘になる。でも自分の身に起きた事だから受け止めるしか無いって思ってる。勿論、そう思える様になる迄には大分かかったけど」

 

 

 真っ直ぐな彼の視線を受け止め切れず、葵はついと目を伏せた。

 

 

「そう、ですか……」

 

 

 いきなり戦時中の世界に迷い込んだと聞いた。世話になったメンバーの行方が知れず、今も心を痛めているとも。けれどそれを恨む素振りも見せず、今は此処でこうして穏やかに笑う。

 彼も扇と同じなのだろう……辛さを、哀しみを、深く知っている人。

 

 

「……強いんですね」

 

 

 ぽつりと言われた彼女の言葉に、芥はとんでもないと手を振った。

 

 

「まさか!君や扇のほうが余程しっかりしてる。俺なんて元の世界じゃ仕事も適当だったし、だらしなくていつも怒られてたよ」

 

「信じられない。ご両親が厳しすぎるんじゃないんですか?」

 

「いや、それは彩に……あ」

 

 

 うっかり口走った名前。途端に芥は口籠って赤面した。

 

 

「あ、彼女さんに」

 

「……そう……」

 

 

 これは身が持たない。必死で話題を戻す。

 

 

「……えっと。だから俺、ホントに根性無しだったし、今もそれは大して変わってないんだ。だけど前の世界で、自分や仲間を信じる事の大切さ、みたいなのを感じたって言うのかな。

 上手く言えないけど、そうやって仲間が頑張っている姿を見て、『自分も頑張ろう』って勇気を貰えたんだ」

 

「良い人達も、いたんですね」

 

「ああ。すごく助けられた。それは今も一緒だよ」

 

「今も?」

 

「そう。君達にいつも勇気を貰ってる」

 

 

 本当だよ、と芥が笑う。その言葉と笑顔が『あの時』を彼女の中に蘇らせた。

 

 

『……必ず成功する、頑張って』

 


 自分の手術が決まった時、扇は笑顔で声をかけてくれた。それに自分はどれだけ勇気づけられたか分からない。手術の不安も抑えられた。リハビリだって頑張れた。

 

 だが、あの移植手術は元々彼に行われる予定だった……そうと知った時の罪悪感。

 適合が自分より低かったとは言え、全くのゼロだった訳ではない。あの時、予定通り彼が手術を受けていれば、今頃……。

 

 彼女の目から、唐突に涙が溢れ出した。

 

 

「え、俺何か悪い事言った……」

 

「いいえ、違うんです。ごめんなさい……わたし……」

 

 

 狼狽え心配する彼に謝りながら、それでも涙は止まらない。

 

 

「……君が謝る事なんて何も無い」

 

 

 そっと声をかける。

 

 

「いいえ。私、頑張ってなんていない……私、ただの卑怯者なんです」

 

「そんな事……」

 

「聞かれたんじゃないですか?私が、彼の未来を横取りしたっていう話」

 

 

 彼女が語る内容が、芥の心を抉っていく。

 

 

「彼を助ける為に資格を取りたいっていう気持ちは嘘じゃありません。けど、それが自己満足に過ぎない事も分かっているんです。彼の為に頑張ったって、私が思いたいだけ……実際、留学してから現場に入れるまでに最短でも3年かかるんです。間に合うかどうかさえ分からない」

 

 

『……彼女にしてみれば、扇の未来を奪ったと感じてしまうのでしょう』

 

 

 赭が言っていたのはこの事だ。自分が背負うべきだった物を彼に押し付け、自分だけが元気に生きている。それは罪だと考えているのか。

 

 

 『……でも、持つ必要の無い罪悪感は持たないで欲しい。扇自身は『彼女に最適のドナーが現れた事に意味がある』と言い切ってますからね』

 

 

 赭の話の続きを思い出し、辛うじて芥は気持ちを立て直した。彼女は扇の姿の向こうに、病に打ち克ち、再び幸せを手にする人達の姿も見ている筈だ。

 だが扇への贖罪の意識が強すぎて、その目標が見えづらくなってしまうのではないだろうか。

 

 

(扇の心配も、そこなのかもしれない)

 

 

 葵の人生は現在、彼を中心に動いている。彼が生きているから、彼女は何とかモチベーションを保てているのだろう。

 

 今、彼がこの世から消えたら……。

 

 

「……扇の方が生きる価値があるのに、私が助かってしまった。それが納得出来ないんです。これが運命と言うなら酷すぎます。そうじゃないですか?今直ぐにでも私の命を彼にあげたい……そう出来たら一番良いのに」

 

 

 そうじゃない。自分自身をそんな風に追いつめないで。

 

 

「違う」

 

 

 鋭い声。思うと同時に言葉に出ていた。彼女の肩がぴくりと揺れる。

 

 

「命に価値の差なんて無い。皆一緒だ、君にだって生きる価値と権利が有る。君はドナーと扇の『二人』から命を貰った。今度は、君がその命を活かす番なんだ」

 

 

 移植は、極限での命の遣り取り。芥はそう思っている。当人にしか分からない苦労や葛藤もあるに違いない。それでも、それが自分に与えられた人生。

 

 

「扇は、君が元気になって本当に喜んでる。君が自分の脚で人生を歩こうとしているのを心から応援している」

 

「……ええ」

 

「君の挑戦を全力で応援してる、それは君も感じている筈だよ」

 

「……」

 

「ICNを取って人を助けたいって話してくれた時、君の目は真剣だった。君の言葉に嘘は無い」

 

「でも、扇は……」

 

 

 再び泣き顔になる彼女の肩に、そっと左手を添える……今、自分はちゃんと笑顔になれているだろうか。

 

 

「確かに、残された時間は少ないかもしれない。でも未来なんて分からない。彼は、先生たちの予測より何年も長く生きているじゃないか。希望は捨てなくて良い。捨てちゃ駄目なんだ」

 

「……同じ事、言うんですね、彼と」

 

「そう?」

 

「ええ。諦めてない、希望はいつでも有るって。先生もそうです。本当に……おんなじ」

 

 

 彼女の涙は止まっていた。知らずの内に上がっていた両肩が、吐く息と共にゆるりと下がる。少しの間を置いて、ふ、と溜息とも笑いともつかない音が微かに聞こえた。

 

 

「……そうですよね、今は他の事なんて考えてる場合じゃない。進まなきゃ何も変わらない」

 

「そう、その通りだよ」

 

 

 こんな自分との遣り取りだけで彼女の悩みが解消するとは思わない。それでも、出来る事があれば何でもしてあげたい。

 

 

「……そうだ、これから君が扇を看れない時は、俺に手伝わせてもらえないかな。君みたいにはなかなか出来ないだろうけど」

 

「え?」

 

「実は俺、此処に居る間は先生のチームの手伝いをさせてもらう事になってて……あ、そうか。スタッフとしても、もっと勉強しないとダメだな。頑張って覚えるから、合間に教えてほしいんだ。勿論、先生にもしっかり聞くようにする」

 

 

 全力の支援を申し出る芥に、葵は目をぱちくりさせる。出会って日も浅い自分達にこれ程親身になってくれるなど、直ぐには信じられなかった。

 

 

「どうして……そんな事まで?」

 

 

 問えば、彼は少し照れ臭そうに笑った。

 

 

「さっきも言ったけど、俺、本当にダメ人間でさ。でも、前の世界の仲間はそんな俺を命がけで助けてくれた。そのお陰で生き延びれたんだ。今も、仲間達に心から感謝してる」

 

 

『……君は死なせない、絶対に』

 

『死ぬな、芥!!』

 

 

 ……彼等の声が耳の奥で今も響く。

 

 

「世界が違ってしまったから、彼等に恩返しは出来ない。でも彼等が俺にしてくれた事の数パーセントだけでも、ここで出来る事があるならやりたい。君たちの役に立てるなら、いくらでも力になりたいって思ってるんだ」

 

 

 その言葉が、葵の心に微かに触れた。

 

 

「それってもしかして、さっき私に言ってくれた事と同じ……?」

 

 

 受け取った想いを、命を、次へ活かして繋げていく。

 

 

「……うん、そうだね。同じだ。だから俺も頑張らないとね。君ももうすぐ本試まで3ヶ月を切るし、体調管理も考えていかなきゃ。合格まで、一緒に頑張ろう。な?」

 

「ありがとう……芥さん」

 

 

 今度こそ涙の跡をしっかり消して、葵はいつもの明るい声で彼に礼を述べた。

 

 

「気をつけてたつもりなのに、やっぱり弱気になってたみたいです。変な事言ってすいませんでした……でも、ちょっとスッキリしました。気持ちを入れ替えて、まずは試験が済むまで頑張ります」

 

「そうだね。やれる事は全部やっていこう」

 

 

(大丈夫、きっと全て上手く行く)

 

 

 彼女の返事を聞いて、芥は安堵した。


 葵も芯は強い。今は未だ、本人がその事に気付いていないだけ。

 

 

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20091122-20110603-20181106