Part 2 -- Request --

 

 圧倒的な風圧と、眼をきつく閉じていても透けて見える赤い色。

 それらが一気に襲いかかる。

 

 狂気を孕んだ空間に、芥は自分の身体が溶け込んでいく気がした。

 

 

-----------

 

 

「気がつきましたか?」

 

 

 唐突に声をかけられた。全く聞き覚えの無い声だ……いや、待て。

 

 

(生きてるのか?俺)

 

 

 先にその事が気になった。確かめるために、重い瞼をそれこそ全力で開ける。

 

 最初に認識したのは、一面の白。そこから次第に焦点を結ぶ視界。暫くしてやっと認識出来たのは、見知らぬ人の顔。白衣を着ているようだが、黄丹ではない。

 

 

(ああ、彼は……)

 

 

 死んだと聞いた……自分は結局、逃げ切れたのだろうか。

 

 

「此処は?」

 

 

 掠れているが、声は出た。芥の顔をのぞき込んでいた人物が安堵の息を吐く。

 

 

「病院ですよ」

 

「病院……F国の?」

 

「え……」

 

 

 途端に相手は戸惑った。何か変な事を言ったのだろうか。

 

 

「……どこの病院ですか」

 

 

 聞き直してみる。返ってきたのは、全く知らない地名と病院名だった。

 

 

「海軍病院では無いんですね」

 

「……違いますよ。そもそもここには軍なんて無いですから」

 

 

 軍が無い。その意味を考えようとしたが、未だ頭が上手く回らない。

 思いつくままに問いを重ねてみた。

 

 

「今日は?」

 

「3月8日。そろそろ夕方です」

 

 

 時間の計算が全く合わない。

 

 

「俺、どうしたんだろう……」

 

「先日、この先のビルで大規模な火災がありましてね。君はその現場で火傷を負って倒れていたそうです。そして、ここに搬送されました」

 

「え……!」

 

 

 『それは違う』と言いかけ……そこで慌てて口を噤んだ。

 

 

「は?」

 

「あ、いえ」

 

 

 訝しむ相手から視線を外し、一旦目を閉じる。

 

 合わない時間。軍隊の無い世界。

 

 

(……また別の世界か)

 

 

 スッと理解出来た。二度目ともなると混乱が収まるのも早い。俺も大したモンだなと、嬉しくも何ともない自分への讃辞をこっそり吐く。

 

 再び目を開ければ、手首に痣がうっすらと残っているのが見て取れた。黄丹に拘束された際に出来たものだろう。

 あの一連の体験は幻ではない……そこで、重大な事を思い出した。

 

 

(……みんなは?!)

 

 

「あ、急に動いては!」

 

 

 焦って身体を起こそうとする。即座に制止されたが、遅かった。

 

 

「……っつぅ!!」

 

 

 途端に何十本もの釘を深く差し込まれる様な痛みに襲われ、芥は呻く。

 

 

「肩から背中に広範囲の火傷を負ってるんです。今、下手に動いたら余計に患部を傷めます。まだしばらくは安静にしていないと」

 

 

 言いながら、芥を支えてベッドに横たわらせた。

 落ちつくのを見計らって、彼が自己紹介をする。

 

 

「改めまして。担当医の赭と言います」

 

「あ、山吹 芥です。すいません……あの」

 

「何か?」

 

「俺と一緒にいた仲間も此処へ来てないでしょうか……その、怪我とかで」

 

「どなたです?名前を教えて下さい」

 

「蘇芳 仁、桑染 誠、薄鈍 統」

 

 

 赭は直ちにファイルを捲って確認してくれた。

 

 

「無いですね。すいませんが、どなたもいらっしゃらないようです」

 

「そうですか……」

 

 

 どこかで覚悟はしていたが、やはりここへ跳んだのは自分一人らしい。

 

 

「ありがとうございました」

 

「いえいえ。今は、ゆっくり眠って下さい。何も心配は要りません」

 

 

 彼の言葉に素直に従う。ふぅ、と一息つくと先ほどからの点滴が効いてきたらしい。芥はそのまま眠りに落ちた。

 

 

-----------

 

 

 翌日から、赭は午前・午後・夜間と三回は芥の元を訪れた。外来は担当していないが、その分治療法の研究に力を入れているとの事で、相当忙しそうではある。

 

 

「全治2ヶ月、ってところです。外傷もあるので余裕を見て3ヶ月は入院してもらいますね」

 

 

 毎日の処置は痛みとの戦いだったが、彼の細やかな指示のお陰もあって、思った以上に皮膚の再生は早かった。

 

 

「まだ若いから。それに頑張り屋さんですからね」

 

 

 そう言って子供にするように頭を撫でられた時には、何だかこそばゆい気分になったものだ。

 

 

「そんな……こんなに良くしてもらって申し訳無いです」

 

「気遣いは無用です。怪我人は元気になるのが仕事ですからね……うん、これなら院内は一人で動いてもらって構わないでしょう。痛みは我慢してもらわないといけませんが」

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

 

 意識を取り戻してから1週間が経っていた。確かに上半身の痛みは未だきつく、元通りに動けるという訳ではなかったが、自力で移動出来るのは有難い。
 しかし、一つ不安が無くなれば新しい不安が生じる……自分は此処でも不審者扱いになっているのではないだろうか。

 

 

「ああ、それでしたら私が身元引受人になってますから大丈夫ですよ」

 

 

 赭にそれとなく確認してみたところが、あっさりそう言われて拍子抜けした。

 

 

「は?」

 

「君が入院した時点で、身元照会はさせてもらったんです。でも何も荷物が無かったし、ビルの関係者でも住人でも無いようだったし、別に悪い人と言う感じでもなかったので、じゃあひとまずって事で」

 

「はぁ……」

 

「気にしないでください。趣味みたいなモノですから」

「趣味?」

 

 

 それ以上何も言えなかった。度肝を抜かれた、というのが正しいのかもしれない。
 得体の知れない人間の保証人になるとは、どんな酔狂な人物だ。

 

 

-----------

 

 

 それから更に1週間が経った。

 その日も芥は院内の散歩に出た。最早日課だ。

 

 芥が“入院”しているフロアは、個室だけらしい。奥には特別室のドアも見える。室内の音は一切聞こえてこない。しかし常に満床のようだった。

 

 唐突に前方のドアが開いた。何か急ぎだろうか、中から女性が飛び出して来る。

 

 

「わかった、すぐ買って来るから!」

 

 

 その姿を見て、彼は思わず立ち竦んだ。

 

 

(彩?!)

 

 

 背格好がそっくりだ。只でさえ思うように動かせない躰が驚きで固まり、そのまま芥はバランスを崩す。そこへ彼女が駆けて来た。

 

 

「あっ……と!」

 

「きゃっ!」

 

 

 避けようとして叶わず、倒れ込むようにして彼女とぶつかった。ギリギリで片手が手摺を掴む。お陰で転倒は免れたが、結局は無理な体勢になり、肩から脇腹に鋭い痛みが走った。

 

 

「……っつ!」

 

 

 反射的に蹲る。相手はぶつかった弾みで尻餅をついたが、幸い大したダメージは受けなかったようですぐに立ち上がり、芥に駆け寄った。

 

 

「えっ、ちょっと貴方大丈夫?!ごめんなさい!」

 

「……大丈夫。君のほうこそ怪我は無い?」

 

「私は何ともないけど……」

 

「どうしかたの、葵?!」

 

 

 病室のドアが半分開いて声がした。

 

 

「患者さんとぶつかっちゃったの!凄く痛そうで……」

 

 

 葵は可哀相なまでに狼狽えていた。何だか申し訳無くなってくる。

 

 

「大丈夫だから、ホント」

 

「でも……」

 

 

 芥が顔を上げる。そこで初めて目が合った。

 

 

(……ああ、やっぱり似ている)

 

 

 つい、じっと見つめてしまった。そんな彼を葵は不思議そうに見る。

 

 

「大丈夫?二人とも」

 

 

 声の主がやって来た。車椅子に乗った少年だ。微かに何かが芥の意識に引っかかるが、理解する前にするりと逃げてしまう。

 

 

「ああ。何ともない。ごめん、驚かせて」

 

「すいません、私が慌てていたから……」

 

「お急ぎでしたか?検査に行くところだったとか」

 

「いや、リハビリがてらに散歩。もう大丈夫、歩けるよ」

 

 

 ゆっくりとだが立ち上がり、葵に笑いかければ、漸くホッとしたようだ。

 

 

「君こそ、急ぎの用事があったんじゃないの?」

 

「ああ、僕が買い出しを頼んだんです……じゃあ葵、悪いけどお願いしておくね。僕はこの人ともう少し話をしたい」

 

 

 彼女にそう言って送り出すと、少年は芥に『お茶でも飲んで行って下さい』と部屋へ誘った。

 

 

「今はお時間大丈夫なんでしょう?」

 

「え、まあ……」

 

「では是非。お詫びにもなりませんが、休憩ついでに」

 

「……うん」

 

 

 断れない雰囲気だ、芥は頷いた。

 しかし彼の体調こそ大丈夫なんだろうか……細い腕、青白いほどの顔色。休憩は芥よりも彼に必要と思われた。

 

 

「あ、この位はいつもの事なんです。ずっと療養生活なので、どうしても生っちろくなっちゃうんですよ」

 

 

 芥の心配に気付いたようだ。これが平常なんですと笑う。

 

 

「最近来られた方ですよね、初めまして。木賊 扇と言います」

 

 

 言いながら右手を差し出してきた。芥も握手に応じる。

 

 

「俺は山吹 芥……よろしく」

 

 

 握り返した彼の掌は、予想と裏腹にとても温かかった。

 

 

「どうぞ、中へ」

 

「わ……」

 

 

 病室に足を踏み入れた途端、芥は思わず声をあげた。

 すっかり普通の居室だ。家具も整い、ベッドも看護用の機能重視型ではなく、暖かみのある木製。枕元に置かれた薬袋や側に吊られた点滴などが、辛うじて此所の本来の機能を教えてくれる。

 

 

「紅茶ですけど、ストレートで良いですか?」

 

「ああ、有難う」

 

「驚きました?」

 

「うん。全然病室という雰囲気じゃ無いし、何ていうか……すごいね」

 

「此所での生活もかなり長いので。あれこれ持ち込んだらこうなっちゃったんですよ」

 

 

 皆さんが大目に見てくれているんで有難いです、と笑う。

 

 

「芥さん、火傷の治りは良いみたいですね」

 

「あれ、何故それを?」

 

「僕の主治医、赭先生なんです。それでこの前先生に『君にお兄さんはいなかったよね?』って聞かれて、理由を尋ねたら、よく似た人が火傷で入院してきた、って」

 

「あー、そうなんだ」

 

 

 得心した。さっき気になったのはそれだ。言われてみれば確かに似ている。

 十代の頃の、自分に。

 

 

「芥さんは、おいくつなんですか」

 

「26。君は?」

 

「18です。小さいでしょう?」

 

「でも何か大人っぽいよね」

 

「そうですか?」

 

 

 はにかんだように笑う。確かに外見は年齢より幼く見える。しかし、この物腰の柔らかさと細やかな気配りは、18歳の少年のものとは思えない。

 

 

(しかも、めちゃめちゃ落ち着いてるし)

 

 

「お待たせ。いつものが無かったから此れにしたけど、良かった?」

 

「ありがとう。うん、問題無いよ」

 

 

 葵が戻ってきた。かいがいしく扇の世話を焼く様子が微笑ましい。

 

 

「仲良いね。姉弟?」

 

「え……似てます?」

 

 

 葵が戸惑ったように芥の方を振り向いた。違ったらしい。

 

 

「あ、ごめん。何となく雰囲気が似てる感じがして」

 

「葵、そうしたらまた夕方に来てもらっても良い?今日は調子良さそうだから大丈夫」

 

「うん、分かった……どうぞごゆっくり」

 

「ありがとう」

 

 

 芥の言葉が気に障ったのだろうか。葵の声のトーンが落ちていた。

 それでも丁寧に挨拶をして去る彼女を黙って見送る。

 

 一呼吸置いてから扇に聞いてみた。

 

 

「俺、何か変な事言っちゃったかな」

 

「大丈夫ですよ。彼女はここ数年、色々手伝ってくれてるんです。だから空気が似てきたのかもしれません」

 

「そうなんだ。じゃあ……」

 

「パートナーとかでもないですよ」

 

 

 先回りされて、芥は口籠もった。だが扇は別に気にする風でもない。

 

 

「知り合ったのは、彼女の入院がきっかけなんです」

 

「え、彼女も入院を?」

 

「はい。5年くらい前になります。今はすっかり元気になったんですが、退院してからも僕の事を色々気にかけてくれてるんですよ」

 

「君は、いつから此所に?」

 

「彼女よりもずっと前からですね。発症は5歳です。学校は1年間は通えたけど、それも入退院の繰り返しでした」

 

 

 入院生活が、軽く10年を越えている計算になる。

 

 

「治療はしてる……んだよね?」

 

「勿論です。ただ、僕の病気はその方法が確立してないんですよ。前の医者には20歳まではもたないと言われました。一番可能性があるのは臓器移植ですけど、僕の場合は複数必要ですし、それも提供者が居てくれての事ですから」

 

「……そうなんだ」

 

「でも、最初の頃は『15歳までも生きられない』って言われてたんです。未来なんて分かりませんね」

 

 

 反応に困っている芥とは対照的に、扇はにっこり笑って話を続けた。

 

 

「それに赭先生が担当になってくれてからは、先生のチームがずっと研究を続けてくれているんです。誰も諦めていない。今後誰かが同じ病気にかかった時にはしっかり治せるようにって、頑張っているんです。自分はその先鋒でもあり、同時に先生のチームの一員でもあるんです」

 

 

 諦めてない。

 その一言に、芥の方が勇気づけられる。

 

 

「頼もしいね」

 

「はい。先生もスタッフの皆さんも、すごくパワフルですよ。芥さんにも会ってもらいたいな」

 

「ああ。機会があれば、是非」

 

「ありがとうございます……ところで、芥さんはどこの方なんですか?」

 

 

 今度は芥が質問される側だ。

 

 

「あー、それなんだけど……」

 

 

 少しの躊躇いはあったが、この少年には普通に話せる気がした。

 パラレルワールドからの旅人だと知ると、扇の顔がパッと輝く。そこからは兎に角、芥の体験談を聞きたがった。

 

 

「すごいですね!ちゃんと有るんだ、そんな事も」

 

「変だと思わない?」

 

「そりゃ、かなり珍しい事とは思いますけど。でも僕も色々と不思議な体験をしてきたので」

 

「あ、そうなんだ?」

 

 

 意外な気がしたが、成る程と思う部分も少しある。

 

 

「内容を聞いても?」

 

「そうですね……命は此所にあるだけのものじゃなくて、見えない所で繋がってる。運命は決まってるかもしれないけど、未来は変える事が出来る……そんな感じかな」

 

「……何か壮大だなあ」

 

「芥さんのほうが波瀾万丈っぽいですけど」

 

 

 お互い顔を見合わせ、一頻り笑う。

 

 

「……そのせいかな?君、すごく落ち着いてるなってさっき思った」

 

「確かに、年寄り臭いって言われる事もあります」

 

「いや、そこまでは言ってないけど」

 

「分かってますよ」

 

 

 笑いすぎて滲んだ涙を拭きながら、扇は続けた。

 

 

「でも正直なところ、今の僕に生き死にはあまり問題じゃないんです。死ねばこの身体から解放されて自由に飛び回れる事を知っています。ひょっとしたら、芥さんの世界にだって行けるかもしれません」

 

「……本当に?」

 

「ひょっとしたら、ですよ。でも今は未だ、僕がいなくなる事で悲しむ人たちが居て、僕がここに居るからこそ作っていける物もある。だからもう暫くは生きていたいなって思います」

 

 

 自分を想ってくれる人達の為に……。

 

 

「扇、“君自身”がやってみたい事は?」

 

「うーん。折角だから、生きてる内に飛行機とかには乗ってみたいかな。空を飛びたいですね、この身体で」

 

 

 やはり不思議な少年だと芥は思った。だが、彼の前では素直に話せる、自然体でいられるとも感じていた。見えない枷から解放されたような気さえする。

 

 

「もうお昼になりますね」

 

 

 昼食の時間を知らせる音楽が流れる。すでに2時間以上、経過していた。

 

 

「ありがとうございます。是非また遊びに来てください」

 

 

 彼はそう言い、芥を見送った。

 

 

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「今朝は、扇と話したそうですね」

 

 

 夜の回診に来るなり、赭が満面の笑顔で切り出した。

 

 

「あ、聞かれましたか」

 

「ええ。彼、とても喜んでましたよ。あんなに話を聞いてもらえるなんて嬉しかったと、言ってました」

 

「それなら良かった。実は俺もすごく話しやすかったんです……不思議な感じでした」

 

「それは何よりです」

 

 

 赭がウンウンと頷いた。

 

 

「時に、君もなかなか不思議な経緯を辿ってるみたいですね」

 

「……彼から何か?」

 

「ええ。別世界から来たと聞きましたよ」

 

 

 普通にこう返されるのもまた不思議なものだ。

 

 

「はぁ、まあ……。あの、驚きませんか?」

 

「二人目になると、さほど驚かないものです」

 

「二人目?」

 

 

 では一人目は……。

 

 

「扇です」

 

 

 あっさりと教えてくれる。

 

 

「流石に私以外には数人のスタッフにしか話してないようですが。彼は以前、此処で意識不明になっている間に色んな所を巡って来た、と」

 

「……臨死体験とかの類ですか?」

 

「それとはまた少々違うらしいんです。本人は『次元を超えた』と言ってましたが。こっちは必死で救命措置をしてる時に呑気なもんだ、って後から笑ってたんですけどね」

 

「はぁ……」

 

 

 自分の体験など、まだ序の口だと思わされてしまう。上には上がいるものだ。

 呆気にとられる芥にニコリと笑って、赭は続けた。

 

 

「……患者さん達と接していると、時にその強さに驚かされます。生命力、精神力。そして親しい人の支える力。更に、何か『見えざるものの意思』すら感じる場合も多々あります。“大いなる存在”などと呼ばれるものですが、我々はそれらに畏怖の念を抱きます」

 

 

 大いなる存在……人智を越えたもの、だろうか。

 

 

「うん、治りは順調です。今朝の件も、神経がまだ過敏な状態だからでしょう。怖がらなくて大丈夫。この調子なら、楽になるのもかなり早いですよ」

 

「ありがとうございます」

 

「ところで、“退院”されてからの事でご相談なんですが」

 

 

 そうだった。治癒の見込みが立てば、その後を考えないといけない。ところが。

 

 

「どうされます?」

 

「どう、って……」

 

「全く違う世界に来たんでしょう?冒険とまでは言いませんが、この世界を色々見て回るという手もあるじゃないですか」

 

 

(え、そっち?)

 

 

 芥は面食らった。彼には、異世界で路頭に迷うなどと言う発想は微塵も無いらしい。何と言うポジティブ。此れも扇の影響か、或いは彼本来の性格なのか。

 

 

「……退院していきなりソレは、ちょっと」

 

 

 真面目に返せば、赭も『それもそうですね』と同意を示し、改めて提案した。

 

 

「そうしたら、私達のチームの手伝いをしてもらえませんか」

 

「……それは助かりますが、出来る事なんてありますか?」

 

 

 例の研究チームの事らしいが、医療の事などてんで分からない。

 

 

「大して難しい事じゃありません。まずは扇の話し相手と身の回りの手伝いを」

 

「……それ、葵さんがしている事ですよね?」

 

 

 かいがいしく世話を焼く姿を思い出し、気がひける。

 しかし赭は小さく肩を竦めた。

 

 

「そうなんですけど、そこが問題で。実は、これは扇からの依頼なんです。彼女のあの行動は、彼に対して申し訳ないという思いもあるからなんですが、扇は自分のせいで彼女の視野が狭くなっているのでは、と気にしているんです」


「……どう言う事ですか?」

 

 

 ひとつ間を置いて、彼は説明を始めた。

 

 

「4年前、彼女は移植手術を受けました。彼とは違う病気でしたが、移植が必要だった事には変わりがありませんでした。ドナーが現れた時、最初は扇への移植手術が検討されたのですが、血液型を始めとする適合が彼女のほうにかなり優位だった事もあって、レシピエントが間際で彼女に変更されたんです。

 お陰で彼女は健康になりましたが、それ以降新たなドナーは現れず扇の病気は進行しました。結局、今では体力的にも移植手術は困難な状態です」

 

「そんな事があったんですか」

 

「なので、彼女は今でも『自分だけが助かった』という罪悪感が拭い去れないんです」

 

「でも彼がその手術を受けていたら、彼女のほうが持たなかったかもしれないですよね?適合が低い移植手術だったら、彼も治ったとは限らない……」

 

「そうです。だからどちらが正しいとかの問題じゃない。こうした事に『もしも』は無い。私達もその時に最善と思える決断をして行くしかないんです。でも彼女にしてみれば、扇の未来を奪ったと感じてしまうのでしょう。

 でも、持つ必要の無い罪悪感は持たないで欲しい。扇自身は『彼女に最適のドナーが現れた事に意味がある』と言い切ってますからね」

 

 

 彼には教えて貰いっぱなしですよ、と赭は笑う。

 

 

「私は研修医の頃から彼を担当させてもらってますが、4年前はまだ新米でした。手術の話が持ち上がった時に彼専用の新しい術式を提案しましたが、研修医の提案が採用される筈もなくて。

 次のチャンスが来る迄に理論と技術を更に磨いて臨もうと決心しましたが、こればかりはドナーあってこその話です。待つ間に彼の体調は悪化してしまいました。だから正直なところ、私自身も不完全燃焼なままなんです」

 

「……先生はずっと研究を続けてくれている、って彼が言ってました。誰も諦めていないって」

 

「勿論。この病気の治療方法は確立させます。彼と共に」

 

 

 そこで赭は、やおら芥の方を向き直った。

 

 

「君も加わってくれたら彼も心強い筈です。と言う事で、よろしくお願いしますね」

 

「え」

 

 

 そうして芥は、毎日彼の部屋に足を運ぶ事になった。

 

 

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20091122-20181003