T.W.W. (2)

 

 規則的な電子音が、闇を割って芥の耳に届いた。

 

 次に聞こえてきたのは、くぐもった呼吸音。

 シュノーケリングの様だなと、遠い記憶が囁く。

 

 

 そう言えば、留学先で親切にしてくれた教授がいた。

 彼が連れて行ってくれた海で、初めてのダイビング体験をした。

 大海原の真ん中で見た黄金の夕暮れは、この世のものと思えない程に綺麗で……

 


 ……自分はどこから来たのだろう。

 


(待てよ。ココ、何処だ?!)

 

 

 一気に覚醒する。周囲の様子がおかしい。

 身の危険を感じ、芥は跳ね起きた……つもりだった。

 

 

「......っうあぁああああ!!!」

 

 

 途端に、息が止まる程の激痛に襲われる。

 肺が反射的に酸素を求めてあがくが、上手く息が吸えない。

 身体のそこかしこが痙攣した。自分の身体の筈なのに、何もコントロール出来ない。

 

 

(何だ、これ?!)

 

 

 彼の異変を察知した者の足音が近づいてきた。

 


「……どうした?」

 

 

(そんなの……俺が聞……きたい!!)

 

 

 激痛は去ってくれない。息も思考も絶え絶えで、相手の声も十分には聞き取れない。

 

 

「まだ……直後なんだぞ……暴れ……じゃない」

 

 

 視界が急に明るくなり、反射的に目を閉じた。同時に強い力で手足を押さえつけられる。

 誰かに指示を飛ばすその声だけは、何故だかはっきりと理解した。

 


「鎮静剤!」

 

 

------------

 

 

 次に目が覚めた時、周囲は再び暗闇に包まれていた。

 電子音が響いているのも一緒だ。

 

 

(この感じ……病院?)

 

 

 ゆっくりと記憶が戻ってきた。先刻の激痛は収まったようだが、またあんな目には遭いたくない。用心して、視線だけを巡らせた。

 

 視界の端で赤と緑、青の小さなランプが点滅しているのが分かった。

 一つ深呼吸。それから、そっと指先を動かしてみる。

 

 

(……動く)

 

 

 自分の意思通りに動く事に安堵し、次は足に意識を向けてみた。

 かろうじて動いたが、両足の感覚はひどく鈍い。

 

 左腕を上げてみれば、微かに鈍い痛み。続いて点滴のチューブが視界に入った。

 

 

「事故ったかなぁ……」

 

 

 思わず声が出た。

 そう言えばあの交差点で、もの凄い音を耳にしたような気がする。

 

 

(あの時に轢かれたって事か?俺)

 

 

 結論に辿り着く。幸か不幸かその直後の記憶が一切無いが。

 

 

(このタイミングでって……ちょっと、マズ過ぎるんですけど?)

 

 

 芥は焦った。

 彩やおばさんに『今年は手伝う』と豪語しておいてこの様。あれから何時間過ぎているか分からないし、買い出しもパァになってしまっただろう。

 既に年越しは終わっているのかもしれないし、これでは二人に何て言ったら良いのか……

 

 

(……おかしい)

 

 

 そこまで考えて、芥は奇妙な感覚に襲われた。

 

 

(人の気配が、無い)

 

 

 いくら病院でも静か過ぎるのではと、唐突に感じた。

 ひょっとしたら今は真夜中で、だからこんなにも静かなのかもしれないが。

 

 

「……彩?」

 

 

 そっと名を呼んでみても返事は無い。事故であれば、彼女のところに連絡が行っていないわけが無いのに。

 少しだけ頭を持ち上げて周囲を見回してみたが、右手に握らされているナースコール以外には何も見当たらず、荷物も一切置かれていなかった。

 

 それとも、今の自分は面会謝絶状態なのだろうか。

 

 

(駄目だ、どうにもなんないや)

 


 とうとう諦めて、芥は右手のナースコールを押した。

 10秒と経たずに足音が聞こえ、医者とおぼしき人物が入って来る。室内が一気に明るくなり、芥は目を瞬かせた。

 

 

「意識が戻ったか。気分はどうだ?」

 

「え、あ……さっきよりはだいぶマシですが」

 

「そうか」

 

 

 一方的な物言いにキョトンとする芥を一瞥し、その医者は後からやって来たスタッフに指示を出していった。

 

 

「これなら、さっきと同じのを1本で良い。モニターは外すな。後は……」

 


 長身で、ガッチリした体格の医者だった。見た目は若そうなのだが、やたらと貫禄がある。

 

 

「名前は?」

 

 

 唐突に質問された。医者は笑顔を浮かべてはいたが、目は笑っていない。射竦められるような感覚が芥を取り巻いた。

 


「あ、芥です。山吹 芥」

 

「そう……ヤマブキ、アクタ、ね」

 

 

 医者は名前を復唱すると一歩近づいた。

 

 

「何やら災難だったようだな。君は、この病院の外壁に叩きつけられていたそうだ。頭も打っているが、脳波には問題無いから安心しろ。痛みも治まって行く筈だ。
 脊椎もとりあえず潰れてはいないが、打撲と捻挫はキツいぞ。神経はそれなりに傷めているから、しばらくは脚が動かしづらい。だが治る」

 

「あ、ハイ」

 

 

 一気に説明され、芥は再び目をパチクリさせた。それを見ていたスタッフが後ろでこっそり苦笑する。

 

 

「他に気になる事があれば、彼に聞けば良い。今はとにかく休め」

 

「よろしく。担当させてもらいます、桑染です」

 

「……よろしくお願いします」

 

 

 桑染と芥が言葉を交わしている間に、医者は病室を出ていった。あっと言う間だ。

 ほぅと溜め息をついた彼に、桑染と名乗るスタッフ……さっき苦笑していた彼だ……が、話しかけてきた。

 

 

「びっくりしましたか?先生はいつもあんな調子なんです。気にしないで」

 

「ああ……ありがとう。大丈夫」

 

「何か欲しいものは?」

 

「いや、今は別に。それよりも、連絡を取りたいんだけど」

 

「連絡?どなたにですか」

 

 

 特に断られる様子も無かったので、彩の名前と電話番号を告げる。

 

 

「……すいませんが」

 

 

 しかし、桑染の返事は思いも寄らないものだった。

 

 

「それは電話番号じゃないですね」

 

「え……?」

 

「少なくとも、この国のものではありません」

 

「ウソだろ……何言ってるんだ?!」

 

 

 さっき感じた違和感が再び押し寄せてくる。

 

 

「落ち着いて。この国では、電話番号は全て17桁で統一されているんです……こういった感じで」

 

 

 言いながら桑染が見せたのは、病院名と所在地が書かれたファイル。

 確かに17桁の数字が並んでいたが、それよりも芥が驚愕したのは病院名だった。

 

 

「海軍……病院だって?!」

 

「そうですが、何か気になる事でも?」

 

「何で今の時代に海軍があるんだ。自衛隊ならともかく」

 

「自衛隊?」

 

「え……」

 

 

 違和感が恐怖に変わった。背筋を悪寒が這い上がってくる。

 

 此処に居てはいけない。だが動けない。

 

 

「山吹さん」

 

「……来るな」

 

 

 芥の異変を察知して近寄ろうとした桑染は、そのひと言で足を止める。

 怯えた瞳。桑染は一呼吸置いて、彼にゆっくりと話しかけた。

 

 

「混乱させてしまったようで、申し訳ありません。ですが、嘘を並べ立てるつもりはありません。

 今は“事実”だけお伝えします。

 

 ここは海軍病院です。

 先程の医者が、貴方の担当医である外科主任の、黄丹 蓮です。

 私は、桑染 誠。衛生兵です。

 そして……貴方の怪我は治ります」

 


 直後、パチンと軽い音を耳にした瞬間に芥は無意識の世界へ舞い戻った。

 

 

------------

 

 

 三度、芥は目を覚ました。

 夢なら醒めていてくれと願いつつ……。


 「……で、何も変わらずか」


 外は明るくなっていた。しかし天気は良くないようだ。

 糸のように細い雨を眺めながら気持ちを落ち着かせ、今の自分が置かれている状況について仮説を立ててみた。

 しかし、どう考えても納得出来る答えは出て来ない。


 唯一の納得出来る仮説は……あるにはある。

 それは以前、彩と冗談交じりに話していた事。

 


『ねぇ芥、もしも……』

 

 

 ノックの音で芥は我に返った。

 扉が直ぐには開かないと言う事は、桑染か。

 

 

「……どうぞ」

 

 

 黄丹よりはマシかと、芥は声をかける。

 開いた扉の向こうには、予想通りの人物が居た。

 

 

「失礼します、山吹さん。少しは眠れましたか」

 

「多分。気付いたら雨が降っていた」

 

「それなら良かったです。気分は?」

 

「良くないね」

 

 

 視線は合わせない。それが芥に出来る精一杯の抵抗だ。

 だが桑染は別に驚く風でもなく、壁際のスツールに腰をかけて世間話でもするかのように、一人で話し始めた。

 

 

「昨夜の電話番号の件。改めて調べてみましたが、結果は同じでした。あとは住所から調べるくらいしか無いので、出来れば教えていただきたいと思いまして」

 

「……」

 

 

 無言で、それでも僅かに首を縦に振ったのを承諾とみなし、桑染はペンと用紙を彼に手渡した。

 

 

「右手は動かしても大丈夫です。利き手ですか?」

 

「ああ」

 

「良ければ近くの地域の名前もいくつか」

 

 

 促されるままに、芥は5つほどの市の名称を書いた。

 しかし、桑染の表情は曇る一方だ。

 

 

「……申し訳ありませんが、どの名称も此処には存在しません」

 

 

(何てこった!)

 

 

 そろそろ認めるしかない。
 目の前の現象が全て納得できる、納得したくない唯一の仮説。それこそが真。

 


「桑染さん」

 

「はい」

 

「昨夜、貴方は衛生兵だと言ってたように思うんだけど」

 

「そうです。今日は午後から病院を離れて別業務に入るのですが、その時は……この制服なんです」



 言いながら白衣を脱いだ彼の姿は、確かに軍人のそれ。

 

 

「……」

 

 

 長い沈黙。

 それから、芥の特大の溜め息が、深く長く続いた。

 


「……はぁーーー」

 

 

 右手で、文字通り頭を抱えた。降参だ。

 


(パラレルワールド、ですか)

 

 

 とんでもない事になった。

 しかし人間というのは、想像を超えた事態に直面すると却って冷静になるのだろうか……どうやら正気は保っていられるようだ。

 

 

「今は、いつですか」

 

「1955年、1月4日です」

 

 

 頭を抱えたまま、溜め息をまた一つ。

 

 

「大丈夫ですか?山吹さん」

 

「うーん……まあ、何とか」

 

 

 学生時代には留学と称して、1年ほど世界各地を回った。

 自分の常識が通じないなんて事は山ほどあった。

 あの1年で環境への適応力はかなりついたと思っていたが、これはハードルが高そうだ。

 

 

「……俺、この病院の外壁に叩き付けられてたって?」

 

 

 黄丹の言葉を思い出し、確認を取る。

 

 

「そうですね。発見者は私なんです。3日前……つまり、1月1日の未明に病院裏手の駐車場の路上で。危うく轢くところでした」

 

「そう言うのやめてくれる?」

 

「失礼しました。ついでと言っては何ですが、貴方が一般人……つまり軍人ではない事は、ほぼ証明されています」

 

「登録されていないから、って事か」

 

「そんなところです。ただ、そうなると関係者専用の敷地内で一般人が発見されたと言うのは異常事態でもありまして。一部では結構な騒ぎになってきているんです」

 

 

 一気に頭が冷えた。先刻感じた恐怖が蘇る。

 

 

「大丈夫。此処に居る限りは、安全ですよ」

 

 

 芥の不安を敏感に感じ取り、桑染は笑顔を見せて彼を落ち着かせた。

 

 

「先ずは身体を治しましょう。後のことは追々です。ではまた」

 

 

------------

 

 

 泥のように眠った。

 

 時折ゆるりと意識が浮上したが、はっきりと目覚めるまでには行かなかった。瞳がぼんやりと白い天井を映し、微かに腕を動かそうとするも叶わず、そのまま再び眠りの淵に落ち込んでいく。

 幾度となく、そのプロセスを繰り返していた。

 

 間に様々な夢を見た。

 

 穏やかな、3人での正月。

 彩と出会った頃の自分。

 やっと自然に息が出来るようになったと感じた、学生時代。

 

 早く自立をと焦っていた高校の頃。

 全てを芥のせいにして暴力を振るう父親の姿。

 意外な程安らかだった、母の旅立ちの顔。

 

 ……そして突然の機銃掃射で吹き飛ぶ自分の身体と意識。

 

 

「っわああっ!!」

 

 

 目が覚めた。

 一斉射撃と感じた振動は、身体の奥から速く絶え間なく響いてくる自分の鼓動。血塗れの感覚は、全身に吹き出した脂汗のそれへと変わる。

 

 

「……」

 

 

 未だ荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくり周りを見渡した。

 変わらない、病院の一室。ベッドサイドに掲げられた『担当・黄丹』の札。

 

 

(そうだった。此処は……)

 

 

 記憶と思考が秩序を取り戻した。自分の身体を改めて眺める。

 

 点滴を始めとするチューブ類は、全て外されていた。

 こわごわ右腕を挙げて頭を触れば、当てガーゼか包帯の感触。傷は未だ疼くが、最初に比べればかなり落ち着いた気がする。

 上体を起こしてシーツをめくると、左脚は未だ包帯で覆われていた。しかし右脚は足首から膝下までだけ。

 

[貴方の怪我は治ります]

 

 桑染の言葉を思い出して少し気が楽になり、芥は再びベッドに倒れ込んだ。

 

 ……次に目を覚ました時には、窓の外は光に満ちていた。そろそろ昼どきなのだろうか、香ばしい匂いが微かに漂っている。

 扉の向こうでは、時おり人の行き交う足音がした。

 

 

(この外って、どうなってるんだろうな)

 

 

 初めて、そんな事を考えた。

 今までと違う世界に来てしまったのは疑いようの無い事実。戻れるまではここで生活していかねばならない。そちらに意識を向けるべきだ。

 

 

「……戻れるかどうかも分かんないけど」

 

 

 自嘲気味な独り言。それも今は仕方無い。

 室内を見渡すと、扉近くの壁際に車椅子らしきものがあった。

 

 これで出てみたい……そんな気持ちが湧いてきた。

 

 ナースコールを押すと、程なく桑染が顔を出す。

 

 

「目が覚めましたか。どうされました?」

 

「点滴は、もう無し?」

 

「ええ。大丈夫だろうと言う事で、今朝全て抜きました。頭部も傷口は塞がりましたから、保護しているだけです。一番重傷だったのは腰から左脚にかけてですが、痛みはどうですか?」

 

「疼く感じかな。自分じゃ殆ど動かしてないから分からないけど」

 

 

 それを聞いて、桑染は芥の足元へ移動した。左足を抱える。

 

 

「ちょっと失礼します。触ってるの、分かりますか?」

 

 

 唯一包帯の巻かれていない指先を一本ずつ触りながら、彼が聞いてきた。

 

 

「分かります……ああ、小指だけ、ちょっと鈍い」

 

「そうですか。では、これで痛いところは?」

 

 

 左脚をゆっくり持ち上げられた。痛みが出る姿勢を確認しているのだろう。一瞬だけビリッとした痛みが走り芥は顔を歪めたが、答えはそれで充分だったようだ。

 

 

「短時間なら座れそうですね。そろそろ寝ている事にも飽きてきたでしょう。少しその辺を周ってみますか」

 

(何だ、この人……)

 

 

 不可解な感覚が、芥の中を走り抜けた。ややこしい患者を扱い慣れているから当然なのかもしれないが、彼の察しの良さは不気味さすら漂う。

 

 

「山吹さん?」

 

「……あ、起きて大丈夫なんだね」

 

「行けますよ。手術からそろそろ1週間経ちますし、寧ろ動かした方が良い。先に水分を摂っておきましょうか」

 

 

 言われて喉の渇きを自覚する。言われるままに上体を起こし、差し出されたコップを受け取った。久々に口にする水は思った以上に胃に染み渡る。

 一息ついてから、桑染の誘導で車椅子に移る事になった。

 

 

「まずは座りましょう。脚をこちらへ」

 

 

 半分抱えられるようにして、芥はベッドサイドに腰掛けた。

 桑染は芥の肩を軽く支えて姿勢が落ち着くのを待つ。そんな彼の姿を芥は黙ってじっと見つめた。

 

 印象的な金色の髪。整った顔つき。これまでの言動から、切れ者であろう事も想像できる。

 衛生兵だと言っていたが、“得体のしれない患者”を任される程の人物だ。単なる下っ端ではないだろう。

 

 やはり、聞きたくなった。

 

 

「桑染さん」

 

「はい」

 

「あなた、何者なんですか」

 

 

 え、と驚いたような顔をしてから、桑染は喉の奥だけでくく、と笑った。

 

 

「……失礼。確かにそうですね。まだお互い、分からないことだらけだ」

 

 

 その声は明るいが、眼は真剣そのもの。

 

 

「山吹さん、貴方はかなり察しの良い方だ。私が言葉で説明するよりも、少しずつでも此処の環境や周りの様子を見て頂くほうが、双方の理解も早そうです」

 

「……そうだね。よろしく」

 

 

 何かをはぐらかされている気がする。しかし、今それを追求するのは止めた。

 

 

(俺は、疑われている)

 

 

 そんな考えに思い至った。“何を”疑われているかは分からないが、軍関係の病院なら尚更慎重になるだろう。だいたい、存在しない住所をさらっと申告する一般人など、この上なく怪しい。

 

 桑染は、自分……正体不明の人間に対しての距離を測っている。丁寧な対応も、業務と言えばそれまでだが。

 

 

「時間はありますから、今は慌てず気楽に。ではそろそろ移りますか」

 

 

 再び彼に抱えられるようにして車いすに移る。直ぐに手際良く膝掛けなどが整えられた。

 

 

「初めてなので、とりあえず屋内だけで」

 

 

 言いながら病室を出る。廊下を見ただけで、ここが特別な病棟であることが分かった。左のつきあたりに、不自然に空間を隔てるドアがある。

 

 

「あれは?」

 

「一般病棟とこちらを区切るドアです。こちら側は隔離病棟扱い……とは言っても、感染症の患者用とかでは無いんですが」

 

 

 そこまで言われれば、理解出来た。

 

 

「俺みたいな『普通に置いておけない』人間用、てことか」

 

「……本当に理解が早いですね」

 

 

 この返しは予想外だったらしい。微かに桑染の声のトーンが落ちた。

 

 

「ではストレートに言います。ここは基本的に、捕虜や『要観察』と判断された人間を収容する所です。ベッド数はあまり無いので、負傷したり病に罹っている人間が優先です」

 

「なるほど」

 

 

 では元気なままだったら……という疑問は敢えて声にはせず、そのまま説明を聞く。

 それによると、隔離病棟は全部で5部屋。黄丹は外科主任と隔離病棟の責任者を兼任。今は芥の他に3人が“入院”しているが、いずれも他国の人間との事だった。

 監視システムは万全。言われて見回してみると、至る所に監視カメラが設置されているのが目に入った。恐らく、他の逃亡阻止システムもあるのだろう。

 逃げる気はさらさら無いが(行くあても無いし)、こうした設備を見るといささか気が滅入る。

 

 そうこうしている内に、先程のドアの前まで来た。曇りガラスの状態なので、こちらから一般病棟の様子は見えない。

 桑染が扉脇のボードを見るだけで、ドアは音も無く開いた。

 

 

(バイオメトリクス……)

 

 

 ドアの開閉を許可されている人物。それなりの権限はあると言う事だろう。

 

 ドアを出て渡り廊下を過ぎれば、天窓から陽光が降り注ぐ洒落た空間があった。天窓の真下には花壇があり、手入れもよくなされている。入院患者には格好の気晴らしの場所だ。

 食事時なためか人は殆どおらず、数人のスタッフらしき人々が桑染に会釈しながら通り過ぎて行った。

 

 

「向こうに中庭があります」

 

 

 桑染が車いすを回廊の壁際に移動させる。そこからは広々とした中庭が見渡せた。外来では一般人の治療もするとのこと。思っていたよりも開放的な雰囲気が溢れているのは、そのためかもしれない。

 

 

「あんまり、軍の病院という感じじゃないよな」

 

「骨折したり手足が無くなっても元気いっぱい、なんて軍人もそれなりに居るので、色々と気晴らしが出来る環境でないと後が大変なんですよ。メンタルをやられてしまうと復帰がどうしても遅れるし、そのほうが厄介なので」

 

「……なるほど、ね」

 

 

 どうにか当たり障りの無い返事を絞り出し、芥は再び窓の外へ視線を転じた。

 今は1月だと聞いたが、中庭を歩く人々は特に着込んでいる様子も無い。寒いといっても大した事はなさそうだ。結構温暖な地域なのかもしれない。

 

 黒髪の、ショートカットの女性が花束を抱えて歩いていく。後ろ姿が彩を連想させた。

 

 

(彩……心配してるかな)

 

 

「今はこのくらいで。そろそろ戻りましょうか、昼食の時間ですし。午後にはリハビリも始まります。他の所は、また日を改めて」

 

 

 時計を見れば、病室を出てから半時間が経過していた。体力は思った以上に落ちているようで、既に車いすに座っているのが少々辛くなってきた。

 

 

「わかった」

 

 

 桑染は足早に隔離病棟の入口まで戻る。そこで初めて気付いた。

 

 

(そう言う事か)

 

 

 ドアのガラス部分はマジックミラーだった。こちらから隔離病棟は丸見えだ。

 一般人なら単に別病棟だと思うだけ。一方で、関係者は外から隔離患者を監視出来る。

 

 そのドアの向こうに、長身の青年が見えた。かなりの重傷者に見えるのだが、杖をついて自分で歩いている。傍らには、桑染と同じ色の白衣を着た女性が付き添っていた。

 

 

「……彼が?」

 

「そうです。“3人”のうちの、一人」

 

 

 簡潔に答えると、彼らの視線がこちらから逸れた時を狙って桑染はドアを開け、素早く芥を中に入れる。途端に二人の声がはっきりと聞こえてきた。

 何やら険悪な雰囲気だ。青年のほうが興奮気味に何かをまくしたてている。衛生兵の女性は、何とか彼を落ちつかせようと必死だが、上手くいかない様子だ。

 

 

(あー、それじゃ駄目だ)

 

 

 青年の言葉は、芥にとって馴染みのある言語。だがそれを、衛生兵は理解しきれていない。あのままでは事態がこじれるだけだろう。

 もどかしさが先立ち、芥は無意識に身を乗り出していた。それに気づいた桑染が『どうしました?』と尋ねた。

 

 

「いや、俺なんかが言って良いのか分かんないけど……」

 

「構いません。教えてください」

 

「話、かみ合ってないよ。あれはまずい」

 

 

 車いすのハンドルを握っていた桑染の手が僅かにぴく、と動く。

 

 

「そうなんですか?」

 

「扱いに不満がある、部屋ぐらい替えてほしいって言ってる。それと……担当が変わった?最近」

 

「そうですね。確かに、山吹さんが来るまでは私が担当でした」

 

 

 言うとピュイ、と短く口笛を吹き、桑染は二人の注意をこちらに向けた。直ぐに彼等は言い合いを止め、こちらに向かって歩き出した。

 

 

「では、二人の通訳を」

 

 

 唐突に桑染が言う。

 

 

「通訳?俺が?」

 

「そうです。出来ますよね?」

 

「普通の会話なら。でも捕虜と軍の人との会話なんて……」

 

「今は“患者と看護者”です。問題ありません」

 

 

 何がどう問題無いのか、と聞き返す事は出来なかった。二人が芥たちの元へやって来て、桑染がさっさと場を仕切り始めたから。

 

 

------------

 

 

「山吹さんは外国語が堪能なんですね」

 

 

 病室に戻り、既に届いていた昼食を勧めながら桑染が尋ねる。

 

 

「そうでもないよ。さっきのは偶然」

 

「私には到底出来ません」

 

「でも話せてたじゃないか。別に俺を使わなくても」

 

「貴方と比べたら本当に片言だったでしょう。私にはあれが精一杯です」

 

「じゃあ、普段は?」

 

「通訳担当が。ただ生憎、今週は別件に駆り出されているんです。先程の衛生兵も通訳志願なので担当を振ったんですが、未だ早すぎたようです」

 

 

 多言語を操れる人間というのは、どこの世界でも重宝するものらしい。

 

 

「留学でもされたんですか?山吹さんは」

 

 

 関心を向けられた。何を聞き出したいのかは分からないが、然りとて誤魔化しようも無い。

 

 

「大学の時に。国際関係の学部だったから交換留学とかも盛んだったし……あ、俺はその制度は枠にあぶれて使えなかったけど」

 

「では単独で留学を?何年くらいですか」

 

「1年だけ。短期留学の形で行って、残りは貧乏旅行をしてた」

 

「思ったより行動派ですね。何カ国ぐらい行かれたんですか」

 

「5ヶ国だったかな。まだ若かったから」

 

「私と同世代でしょう。全然若いじゃないですか。渡航規制などは無し?」

 

「少しは。でも大概は手続きさえ踏めばそれなりに行ける」

 

「そうなんですか」

 

 

 笑顔で話を聞いていた桑染は、しかし次の問いで芥に冷水を浴びせた。

 

 

「そんな国があるとは羨ましい。山吹さんの出身国はどちらなんですか?」

 

「……え?」

 

 

 オマエハ、ドコカラキタ?

 

 ……自分はどこから来たのだろう。

 

 

 記憶にノイズが走る。

 

 

「日本じゃ、無いのか?此処は」

 

「……そう言う名前の国はありませんが」

 

 

(此処は……何処なんだ?!)

 

 名前すら存在しない、芥の生まれ育った場所。

 もう、自分の記憶の中にしかない……。

 

 オマエハ、ナニモノダ?

 

 

「……違う!」

 

「山吹さん?」

 

 

 桑染が異変を感じ取る。

 

 

(此処は……自分のいる所なんかじゃない!)

 

 

 唐突に、その想いが芥の全てを支配した。

 

 自分を知る人がいない場所なんて。

 戻れるかどうかも分からない所に居るなんて。

 

 

(嫌だ、こんな所……!)

 

 

 芥の身体が細かく震えだした。

 ぎりぎりの状態で保っていた理性の糸が断ち切られる。

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 慎重に、ゆっくりと差し出された桑染の手。だが彼はそれを強く払い除け、そのまま我が身を庇うようにかき抱く。

 周囲を全て拒否する鎧のように。

 

 

「ちがう……っ、ここは…俺のいると…っなん……!」

 

 

 奇妙に芥の言葉が揺れた。目の焦点が合っていない。

 

 

「山吹さん!」

 

「……あぁぁぁぁっ!!!」

 

 

 絶叫が室内に響いた。

 絶望の叫び……自分が耳にしたのはいつ以来か。

 

 桑染は心の中で舌打ちし、崩れ落ちる彼の身体を支えた。

 

 

--------------

 

 

 芥がいくらか落ち着きを取り戻し眠りに入るのを見届けて、桑染は病室を出る。

 既に夕暮れが近づいていた。

 

 ……薬を使えばすぐに落ち着く。それは分かっていたが、芥の心が内に籠り崩れかけていると察した彼は、根気強く傍に寄り添い続けた。

 

 芥から“情報”を取れなくなる事は、絶対に避けなければならなかった。

 

 

「どうしたものかな……」

 

 

 自室に戻り、謎の人物について再度考察する。

 

 

 軍人登録も無く、公的機関へ照会しても身元が割れない。

 状況を把握する能力や適応力は、一般人よりも抜きん出ている。しかし一方で非常に脇が甘い。

 こちらの正体を薄々感じ取っていそうにも見えるのに、自分の発言がどれだけ無防備か気付いていない様子だ。

 

 そのような中、彼のプロフィールに関する話は最も奇妙、且つ関心をそそられるものだった。

 ありもしない場所や国の名称を淀みなく話す様は、こちらが何かを間違えているのではと思ってしまいそうなリアリティを感じた程だ。内容は時代錯誤も良いところだが、確かに一つの世界として成立はしている。

 

 彼の世界は、何らかの規則を伴って“現実”とずれている……そんな印象だった。

 

 仮に彼が一時的な記憶喪失や混乱状態の中にいるだけだとして、あれ程の緻密な妄言を滔々と語れるだろうか。そう思うと、今の状況下では事故を装っての潜入活動か攪乱目的と考えるほうが妥当ではある。

 

 

 だが彼が最後に見せた、あの絶望の色。

『此処ではない』と繰り返していた、悲痛な声は……。

 

 

(あれが全て芝居だとしたら、とんだ食わせ者だが)

 

 

「ひとまず保留か」

 

 

 今すぐ解決する類のものでは無い、そんな事象はざらにある。

 ふぅ、とひとつ大きく息をつくと、報告のため黄丹の元へと向かった。

 

 

 

「さすがに遅かったな」

 

「申し訳ありません、大尉」

 

 

 待ちくたびれたと冗談めかして笑う黄丹に、桑染は几帳面に謝罪する。

 

 

「いや、寧ろ感心してる。荒療治もせず対処する粘り強さにな」

 

 

 年末から缶詰め状態になっている鬱憤を一気に晴らすように、黄丹は大声で笑った。

 

 

「で、奴はどうだ」

 

「環境への適応は問題無さそうです。観察力・思考力も一般人としては高いと言えます。語学力は相当のレベルです」

 

「おあつらえ向きだな。上手く行けば情報部で使える」

 

「はい。ただ記憶の混乱は依然残っており、精神状態も最初ほどではないですが不安定です。本人にとっては常時緊張状態を強いられている環境ですから仕方無いかと」

 

「『専門』の線は」

 

「申し訳ありませんが、まだ何とも。特殊訓練まで受けていたとしても、発見時のあの状態を考えれば、ショックで予想外の複合的な記憶障害を起こしている事も考えられます。

 逆に本当に『専門』であの状態ですと、崩壊寸前レベルまで達している可能性があります。時間の認識は問題ありませんが、場所・空間には未だ極端なズレが見られますし」

 

「架空の住所の件か。単なる攪乱目的ではないのか?」

 

「疑ってはいます。ですが、話の筋は通っていて、逆にこちらが何か見落としてしまっているのではと思わされる部分もあり……」

 

「ほぅ、お前を動揺させる程の奴という事か。本当に『彼奴』ではないんだろうな?」

 

 

 一瞬、言葉に詰まる。

 

 

「……大尉の仰る通り『専門』として送り込まれた可能性も否定出来ませんが、申し上げたように彼には非常に脆い部分があります。一般人であれば、それでも未だ気丈なほうですが、洗脳を受けた『専門』であるなら、今すぐに洗脳解除にかけるのは危険過ぎます」

 

「破滅するか」

 

 

 感情の無いひと言が、桑染の心を抉る。

 

 

「……精神崩壊を起こしかねません。行うにしても、最後の手段。今暫く猶予を頂きたいと」

 

「分かった。出来れば彼奴は使えるようにしたい。監視を継続しろ」

 

「はい」

 

「但し最長でも3ヶ月だ。それ以上は待てん」

 

「努力します」

 

 

 捕虜の行く末に口を出せる立場では無い。自分の役目は彼を“使える状態”に持っていく事と、割り切るしか無かった。


 彼の精神状態を安定させ強化する。一方で身体のリハビリと、一兵士としての訓練。身元調査は継続……桑染の頭の中で、今後の計画が整然と組まれていった。

 

 

---------------

 

 

 桑染が退出すると、黄丹は足早に本部へ向かった。

 上層部へ今聞いたばかりの情報を伝え、今後の事で了承を取るためだ。相談ではない。

 

 

「……以上。その後は情報部での復号及び平文の翻訳等に従事」

 

 

 報告をし終え、『他には?』と黄丹は上官の顔を順に見遣る。

 

 

「身元不明の人間を情報部で使うのか」

 

「現時点では裏の取りようも無いが、それを悠長に探っている暇も人手も無いのが現状」

 

「危険過ぎる!何も情報部でなくとも……」

 

「31所属とし、桑染少尉の監視下に置く。それならば安泰なのでは?」

 

「さっさと始末すれば良いではないか。大尉は、どうしてそんな雑魚に執着するのだ」

 

「雑魚かどうかは、まだ決められない」

 

 

 言うと、黄丹は一片の紙切れを懐から取りだした。

 

 

「……これは」

 

 

 見るなり、場は静まり返った。

 それは芥の顔写真。

 

 

「蘇芳 敬では無いのか?」

 

 

 その問いに対し、黄丹は曖昧に首を振る。

 

 

「『印』は一切見当たらず、記憶も全く他人のそれ。しかし皮膚形成技術が此処より進んでいる国も有り得るし、此方の想像以上に強い暗示が掛けられている可能性も捨てきれない。現時点で本人かどうかを判断するのは無理。だからこそ游がせてみないと始まらないのでは?」

 

「しかし、これは……」

 

 

 戸惑う上官に畳みかける。

 

 

「赤の他人であれば、此方の良いように使える。もし本人であるのなら、必ず記憶を戻す時が来る。記憶が戻る時を押さえれば、相手国の詳細も入手出来る。いずれにせよ、今暫く奴を生かしておく事は我々にとって価値がある」

 

「しかし判断を誤ればどうなるかわからん」

 

「だからこそ、桑染少尉の配下に置くと申し上げている」

 

 

 黄丹自身は、芥を赤の他人と考えていた。万が一本人であっても、そうなれば桑染が『その時』を逃さない。彼にはそれだけの能力があり、因縁がある。

 

 全ては手駒でしかない。



「わかった、では大尉の言う通りに」

 

 

 中央に座る人物が初めて口を開いた。

 

 

「特例で構わん。山吹は第31小隊所属。情報部従事の際は桑染少尉の監視下に。少尉の、第31小隊監視も今まで通り継続だ。同じ部隊で監視する方がロスが少なくて良い。蘇芳 仁への牽制にもなれば丁度良い」

 

「ありがとうございます、大佐」

 

「国のため、だ。多少のリスクはあって当然。全力であたってくれ」

 

「御意」

 

 

 ……二人の話に異を唱えられる者はいなかった。

 

>>>1-3

 

2005-2007-20091029-20110505-20180620