右腕が熱い。

 再び目が覚めたのは、その感覚のせいだった。

 

 

「……送り迎えぐらいさせてくれよ。元々そのつもりで休み取ってたんだし」

 

「大丈夫だって!少しは歩いて運動もしなきゃ」

 

 

 男女二人の言い合う声が聞こえてきた。喧嘩とは少し違うようだが。

 

 

「でも、大事にしなきゃいけないのは確かだろ?」

 

「体重増え過ぎても良くないって、芥も聞いたでしょ?過保護は禁物」

 

(あ……俺!)

 

 

 一気に目が覚めた。傍らの時計を見れば9時半。

 今度は直ぐに状況を理解出来た。あれは芥と彩の声。

 

 

「戻る時には連絡入れるから。芥は統クンについててあげて」

 

 

 芥は彼女を何処かに送っていかないといけない。でも自分が居るせいで、それが出来ないらしい。

 

 

「……おはよ」

 

 

 そろりとドアを開けて声を掛けた。気付いた二人が同時に振り向く。

 

 

「あ、おはよう」

 

「ほらぁ、統クン起きちゃったじゃない。おはよう、統クン。うるさくしてごめんね」

 

 

 芥も彩も、少し決まり悪そうな苦笑を浮かべながら挨拶を返した。

 

 

「俺のほうこそずっと寝こけちまって悪ぃな……用事、あンだろ?世話になっといてアレだけど、俺なら大丈夫だから」

 

「あ、いや……」

 

「気にしないで、私が病院に行ってくるだけよ」

 

 

 しどろもどろになる芥に代わって彩が説明する。それを聞いた途端に統は血相を変えた。

 

 

「病院?アンタどっか悪いのか?!」

 

「え、あの……」

 

「すまねぇ!俺なんかのせいで無理させちまったんじゃねーのか?芥、早く送ってや……」

 

「統くん、だいじょうぶ。あのね」

 

 

 一人慌てる統に、彼女はまあまあと宥めるように両手を上下に動かして簡潔に説明した。

 

 

「病気じゃないの」

 

「……?」

 

 

 統は目をぱちくりさせた。鳩が豆鉄砲を食ったようだというのはこの事だろう。

 

 

(じゃあ、見舞い?……でもそれならそう言いそうだし……)

 

 

 不躾なのも忘れて彼女をまじまじと見つめる。そこで漸く気付いた。彼女のお腹が若干大きい。

 

 

「あ、オメデタってやつ……」

 

 

 彩は頷き、少しだけ照れ臭そうに微笑んだ。

 

 

「そう。5ヶ月」

 

「じゃあそれこそ送ってもらったほうが」

 

「ちーがーう。体調が落ち着いてれば、適当に運動したほうが良いのよ。折角の良いお天気だし、歩いて行きたいの。バスだってあるから、帰りも大丈夫」

 

「でもせっかく芥も居るんだからさー」

 

「あら、キミまで芥の肩を持つ気?」

 

「いや、肩を持つとかそーいうんじゃ……」

 

 

 あっと言う間に今度は統がやり込められそうになり、芥がとうとう『分かったわかった』と降参のポーズを取った。

 

 

「じゃあこうしよう。往きは彩一人で行く。帰りは統と迎えに行って、戻るついでに買い物を済ませる」

 

「うん、それなら助かるわ」

 

「え、俺も?」

 

「そうね、来てくれると有難いかな。男手があれば重たい物も買えるし」

 

「あ、そっか」

 

 

 よし力仕事なら任せろと気合いを入れる彼に、芥が『冗談だよ』と笑った。

 

 

「買い出しはホントだけど。良ければこの周辺を案内したいんだ。少しは気晴らしにもなると思うし」

 

「そっか!そいつは楽しそうだ」

 

 

 芥たちが生きている世界を見たくない訳が無い。

 

 

「そうしたら決まりね。また終わったら連絡するわ。今日も待ち時間結構あると思うから、お昼少し前くらいになると思うけど」

 

「わかった。こっちものんびり出かけるよ」

 

「うん。じゃあ統クン、また後で。よろしくね」

 

「ああ。気をつけてな」

 

 

-------

 

 

 二人で彩を見送ると、芥が『朝メシ食うか?』と統に尋ねた。

 

 

「腹減っただろ?昨日も結局ほとんど食べてなかったし」

 

「あ、そうだった」

 

 

 確かに空腹感はあるが、然程食欲がある訳でもない。未だ気持ちが高揚しているせいもあるだろうが……。

 

 

「無理しなくて良いけど、入りそうなら少しでも食べろよ。体がもたない」

 

「ああ」

 

 

 言われるままにダイニングへ移動し、用意されていた自分の朝食に手を伸ばした。カラフルなオープンサンドが彼の好奇心を刺激する。

 

 

「……美味い!」

 

「そう?そりゃ良かった。スープはどうかな、口に合うと良いけど……」

 

 

 芥はマグカップに入れたスープを差し出すと、自分もテーブルの向かい側に腰を下ろした。これが彼の日常なのだろうが、統としては何となく落ち着かない。

 

 

「……あのさ、芥」

 

「ん?」

 

「えっと、その……俺、大丈夫だから。何か準備とか、あんたもやる事あるんじゃねーのか?」

 

 

 こんな穏やかな空気の中で誰かと食卓を共にする事など、今まで一度も無かったから。

 

 

「特に急ぎは無いけど……あ、そうだ。電話を一本入れておかないと」

 

 

 彼の戸惑いをキャッチした芥は話を合わせ、立ち上がった。

 

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。だけど仕事の話って訳でもないから、何かあれば気にせず入って来いよな。玄関手前の右側が俺の部屋」

 

「うん」

 

「出かけるのは11時過ぎてからだから、ゆっくりしておきなよ。そっちのソファでも何でも使ったら良いから」

 

「サンキュ」

 

 

 ダイニングから出て行く芥を見送り、統はまた一つオープンサンドをつまんだ。

 初めて目にする色とりどりの食材。それらは甘味や酸味、仄かな辛味など、実に様々な味わいを含んで彼の舌を刺激する。その多彩なバリエーションに彼は心底感動していた。

 

 

「軍のメシとか、施設のとか……アレ一体何だったんだろなー」

 

 

 ぽつりと、自分に問う。

 答えはすぐそこにあると分かってはいたが、言葉にしようとすると胸の奥がキンと痛んだ。

 

 

-------

 

 

『やあ、山吹君。久しぶりだね!』

 

 

 自室に戻ると、芥はすぐに霞の診療所に電話を入れてみた。診療時間中ではあったが、次の患者の診察までなら大丈夫だと言ってもらえたので、手短に統の件を話す。

 

 

『ああ、覚えてるよ。君のあの話は強烈だったし……ではその時の仲間の一人が、いきなりやって来たと言う訳だね?』

 

「はい」

 

『今、彼はどうしてる?』

 

「食事を」

 

『しっかり食べられてそうかい?』

 

「しっかりとは言いづらいですが……必要最低量は、という感じです」

 

『うん。まあ取り敢えず、水分だけは意識して摂らせるようにしといて。フラッシュバックについてはあまり神経質になりすぎない事。君が言った通りで大丈夫だ。』

 

「はい」

 

『後は怪我だね。確かに私も気になるから……夕方以降になるけど、往診しようか?』

 

「助かります。是非お願いします」

 

 

 早くに相談して良かったと、芥は胸を撫で下ろした。

 

 

『他の往診が終わってからになるから、18時ぐらいになると思うけど』

 

「こちらは大丈夫です。よろしくお願いします」

 

『OK。そうしたら受付に電話回すから、住所と君の名前を伝えておいて』

 

「わかりました」

 

『では後で。久しぶりに会えるのを楽しみにしてるよ』

 

 

-------

 

 

「すっげーな、ホントに何でもあるんだな、芥ンとこは!!」

 

 

 買い物を終え、荷物を車に積み込みながら、統は既に何度目になるか判らない感嘆の声をあげていた。

 

 

「この辺りは住んでる人も多いから、色んなお店が今も増えてるのよ」

 

 

 先に後部座席に乗った彩が解説をしてくれる。

 

 

「え、まだ何か出来るのか?」

 

「うん。ほら、さっき迎えに来てくれる途中に通ったって言ってた図書館。あの裏手に大きなショッピングモールが建つの。来年オープンなんだって」

 

「うへー……」

 

 

 空を仰ぐ。彩や芥にとっては当たり前の世界だが、命をギリギリで繋ぐような毎日を送ってきた自分には想像を超えていた。

 

 

「便利な世界もあったモンだな。アタマん中が追っつかねーや」

 

「その内慣れるさ。次の休みにはまた近場を回ってみよう」

 

 

 芥がそう言いながら最後の買い物袋を彼に手渡した。

 

 

(……!)

 

 

 何気なく受け取った瞬間右腕に痛みが走り、統が一瞬動きを止める。

 

 

「大丈夫か?」

 

 

 其れを見逃す芥ではない。渡したばかりの荷物ごと、彼を支えようと手を伸ばしてきた。慌てて腕を引っ込める。

 

 

「ああ、気ぃ抜いてたからスジ捻りそうになっちまっただけ。何ともない」

 

 

 笑って掌をヒラヒラと振って見せた。大丈夫、これなら痛みは無い。

 

 

「そっか?無理するなよ」

 

「おぅ」

 

 

 じゃあ帰ろうかと、二人も車に乗り込んだ。統がふと窓の外を見ると、こちらを見ている女性二人と目が合った。途端に何やら黄色い声をあげてバタバタと走り去る。

 

 

「……何だ、あいつら」

 

 

 憮然として彼は溜め息をつく。ところが彩が意外な事を言い出した。

 

 

「あら、気付いてなかった?買い物の間も、何人もの女の子達が振り返って見てたわ。それだけイケメンだったら当然でしょ」

 

「……は?!」

 

 

 イケメンって何だと尋ねれば、今度は彼女のほうが意外だという顔をして。

 

 

「あのね統クン、此処じゃキミみたいな男の子はめちゃめちゃ格好いいのよ。自覚無いの?」

 

「……ある訳ねーだろ」

 

 

 ボソボソと反論するが、言っている間にも彼の顔は真っ赤になっていく。

 

 

「だいたい俺、こんな髪だぜ?ありえねーよ」

 

 

 凶兆と忌み嫌われた髪の色。それを纏う人間が好かれるなんて。

 

 

「何言ってんの、それが良いんじゃない!若い子達なんて、わざわざそういう色に染めるくらいだもの。でもキミの髪、天然色でしょ?夕焼けみたいでとっても素敵。瞳もルビーみたいで、ホントに綺麗だし」

 

「うー……」

 

 

 彩の素直な賞賛を浴びまくった統は遂に撃沈した。


 以前、敬にはこの色を褒められた事があったような気もする。だがそれを受け入れるには、やはり抵抗があったのだ。

 なのに此処では誰も何の頓着も無い。加えて異性からこれ程に素敵だの格好良いだのと言われるなんて想像しようも無かった訳で。

 彼にとって、これは天と地がひっくり返った程の衝撃らしかった。

 

 

「芥ぁ……」

 

 

 何とも器用にシートの上で三角座りをして顔を膝の間に埋め、首まで真っ赤にして情けない声で助けを求める。成人男性には失礼かもしれないが、とにかくその姿が可愛くて仕方がない。

 

 必死に笑いを堪えていた芥が、遂にハンドルを握ったまま盛大にぶはっと吹き出した。

 

 

-------

 

 

 途中でピザを買って帰宅し、芥が飲み物を、彩がサラダを用意した。だが統は、やはり食欲が無いようだ。

 

 

「いきなり連れ回しちゃって疲れたかしら?ごめんね」

 

 

 彩の表情が曇る。そんな顔をさせたい訳じゃないのにと、統の心がチクリと痛んだ。

 

 

「いや、大丈夫。あちこち見れて楽しかったし、ホント」

 

「そう?」

 

「ああ。単に俺が、未だこの世界に慣れてねーだけでさ」

 

「確かに、統クンと会ったのって昨日の夕方だし……」

 

 

(右腕が……熱い)

 

 

 朝方に感じた感覚がぶり返していた……だが二人に気付かれてはいけない。

 

 

「少し横になるか?」

 

 

 芥も心配して休憩を勧める。これ幸いと彼は立ち上がった。

 

 

「そうだな。悪ぃけど、また休ませてもらうぜ」

 

「すぐ布団出すから」

 

「すまねーな」

 

 

 芥は手早く布団を整えると、統にインターフォンの子機を手渡した。

 

 

「これ、置いとくから。何かあれば遠慮無く呼べよ」

 

「わかった」

 

 

 子機を枕元に置いて布団に潜り、ひと息つく。ところが続けてかけられた芥の言葉に心臓が跳ねた。

 

 

「夕方になったら、前に俺の担当をしてくれた医者が来てくれるんだ。一度きちんと診てもらっとこうな」

 

「え?!」

 

 

 それは困る、と言いかけ……辛うじて統は動揺を押し殺した。

 

 

「何?」

 

「あ……担当って?」

 

「俺、『戻った』時に大怪我してたんだ。その治療をしてくれた先生。其れ以外でも色々と世話になってね。良い医者だと思うよ」

 

「そうなんだ……」

 

 

 それ以上、統は何も返せない。

 

 

「じゃあまた後で。ゆっくりしろよな」

 

 

 彼の頭をぽんぽんと撫で、芥は部屋から出て行った。向こうから彩の声が微かに聞こえる。

 

 

「うわー……どうしよ」

 

 

 布団の中で、統は文字通り頭を抱えた。

 

 

-------

 

 

 18時を少し過ぎた頃にドアチャイムが鳴った。霞だ。

 

 

「やあ、久しぶり。二人とも元気そうだね、安心した」

 

「お久しぶりです。お忙しいところすいません」

 

「来て下さってありがとうございます」

 

「いやいや。覚えててもらえて嬉しいよ」

 

 

 リビングへ案内された霞は、勧められたソファに腰を下ろすと即座に話に入った。

 

 

「ところで、例の彼は?」

 

「別の部屋で寝ています。昼の外出から戻って、じきに……」

 

 

 芥も彼の向かいに座りながら答える。

 

 

「外出したのかい?」

 

「気分転換になるかと思って。彼女の迎えと買い出しも兼ねて、車で近場を」

 

「その時の様子はどうだった?」

 

「出ている時は、結構楽しそうに見えました。特に気分が落ち込んだりする様子も無かったと思うんですが、帰ってから怠そうだったので、無理をさせちまったかなと……」

 

 

 ふむ、と霞は頷いた。

 

 

「今までの事もあるから、体力が落ちて疲れやすくなっているのは当然なんだよ。だから、いつでも『疲れたら休む』を心がければ良い。後で点滴をすれば回復も早くなるだろう、まだ若いし」

 

「はい」

 

「他に、何か変わった事は?」

 

 

 聞かれた芥は暫く考え込む……そして思い出した。

 

 

「そう言えば……小さな事ですけど」

 

「良いよ。何でも言ってみて」

 

「買い出しで荷物を持ってもらった時、一瞬右腕が痛かったみたいで」

 

「その時だけ?」

 

「そうですね、後は大丈夫そうでしたけど。でももし筋を傷めてたりしたらと、気がかりで」

 

 

 そう、彼と誠は『あの時』相手機に体当たりをかけたのだ。

パラレルワールドに跳んでも身体に受けた傷は残る、それは芥自身も体験した事。統も相当の衝撃を受けたのかもしれない。

 

 

「昨日は彩に彼の手当てをしてもらったんですが、見えてる部分だけでしたし。もしも僕らでは分からないダメージを負っていたらと気になって」

 

「うん、わかった。それも診てみるとしよう」

 

 

 出された紅茶を飲み干し、霞はカバンを手にした。芥がすぐさま案内に立つ。

 

 

「お願いします。こっちです」

 

 

-------

 

 

「統?入るよ」

 

 

 ノックの後に芥の声。間も無くドアが開いて室内の灯りがつく。既に目が覚めていた統は、だが布団にくるまったまま黙っていた。

 

 

「統?」

 

「……おぅ」

 

 

 もそりと顔だけが出て来る。具合を心配する芥の視線を避けた先に見知らぬ姿。

 統の瞳に微かな怯えが走った。

 

 

「霞先生だ。心配しなくて良い、ちゃんと分かってくれている」

 

「初めまして。霞 正比古です」

 

 

 芥の紹介に続いて霞が名乗り、握手を求めて右手を差し出した。

 

 

「……どうも」

 

 

 統も小さくではあるが、挨拶を返す。

 左手がにゅっと出て来たのを見て、霞はさり気なく握手の手を変えた……体温が高い。

 

 

「調子はどうかな。少し熱が?」

 

「さあ、自分じゃ分かんねー。こんなんでへたばって情けねー話だぜ」

 

 

 自嘲めいた声。視線を合わそうとしない。

 

 

「自分で思っているよりも負担がかかっている筈だから、焦らないで。点滴を持って来たから、これでかなり楽になると思うよ……ちょっと失礼」

 

 

 霞は統の右側に位置取り、掛け布団を捲った。

 

 

「両腕を見せてもらえるかな」

 

 

 一言断ってから統の両手首を持つ。

 

 

「……っ!」

 

 

 瞬間、彼は身を固くして反射的に右腕を引こうとした。
 ほんの微かな動きだったが、それで霞には十分だったらしい。そっと手を離し、何事も無かったように続ける。

 

 

「右利きだね?そうしたら点滴は左腕で……その前に着替えようか。そうすれば、このまま明日の朝までぐっすり眠れる」

 

「あ、じゃあ俺持って来ます」

 

 

 芥が立ち上がった。

 

 

「助かるよ。ついでに使って悪いが、お湯と身体を拭くタオルも」

 

「わかりました」

 

 

 芥が部屋を出て行く……少しの間を置いて、霞は静かに問い掛けた。

 

 

「右腕、見せてくれないかな?」

 

「……」

 

 

 統は黙ったまま動かない。

 

 

「怪我をしているね。此処へ来てから?」

 

「……違う」

 

 

 漸く、ポツリと言葉が返ってきた。

 

 

「じゃあ『君の世界』で?」

 

 

 問いを重ねれば、今度は小さく頷いた。

 

 

「なら、怪我をしてから少なくとも24時間以上経っている事になるね。悪化したら後が辛くなるよ」

 

「応急処置はしてある」

 

「消毒とガーゼ交換だけでもしておいたほうが……」

 

「ダメだ……芥にバレる」

 

 

 つと、統が顔を上げた。

 

 

「アイツにゃ知られちゃダメなんだ。直ぐに何があったかバレちまう!」

 

 

 青ざめた顔は必死の形相。泣きそうな顔で霞に懇願する。何があったのか……だが未だ聞かないほうが良いのだろう。

 

 

「……彼は君の事をとても心配している」

 

 

 それだけ言い、霞は点滴の準備を始めた。

 

 

「先生?入ります」

 

 

 芥の声。

 それまで石のように固まっていた統の肩が跳ね、目には恐怖にも似た色が浮かぶ。

 

 

「大丈夫、そのままで」

 

 

 彼を一旦横にならせると、霞は入ってきた芥に指示を出していった。その手元では、あっと言う間に治療用のキットが整えられていく。

 

 

「あ、それはこちらに置いてもらえるかな。着替えはそこで。うん、助かるよ」

 

「他には?」

 

「いや、これだけあれば十分だよ。しっかり診ておくから、後は任せといて」

 

 

 目配せをして、芥に退室を促す。

 

 

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 

 霞の意図を察知し、芥は素直に部屋を出て行った。暫くして統が落ち着いたのを見計らい、彼は再び声をかけた。

 

 

「もう大丈夫。きちんと手当てをしよう。心配要らないから」

 

「……」

 

 

 返事は無い。だが今度は拒否する事無く、彼の言葉に従い起き上がった。次いで上衣を脱ぐ……緩慢な動作は、疲労や痛みと言うよりも不安の表れなのだろう。

 右腕は、肩に近い部分に防水テープが貼られていた。

 

 

「背中から見せてもらうよ……打撲は軽いようだ、大きな傷も無いし大丈夫。首は捻挫をしているようだね」

 

「……どうって事ねーよ」

 

「そう?じゃあ、気休め程度だけど湿布をしておこう」

 

 

 湯に浸してあったタオルを固く絞り、背面を軽く拭いてやる。

 湿布を貼れば、統が一つ大きく息をついた。

 

 

「そうしたら左腕……うん、こっちはOK、手当ても完璧。そうしたら、先に半分だけ着てしまおうか」

 

 

 言われるままに、芥が持って来たパジャマに左だけ袖を通せば、次は仰向けに寝るように促された。上半身をバスタオルで覆い、右腕の下に支えを置く。

 

 

「これ、剥がすよ。いいね?」

 

「……」

 

 

 霞が再度確認を取れば、観念したらしい統は無言で頷いた。後は目を閉じてじっとしている。治療を受け入れられた事に安堵し、霞は防水テープをゆっくりと剥がす……傷口が露わになるにつれ、流石に彼の表情が曇った。

 

 

「……これは」

 

 

 傷は明らかにここ1〜2日以内のものだ。確かに応急処置もしてあったし、傷そのものは大きくは無い。だが抉られている分、深かった。

 

 

(射創か……)

 

 

「いつ、撃たれたんだい?」

 

「……コッチ来る、少し前」

 

「そう……」

 

 

『アイツにゃ知られちゃダメなんだ』

 

 

 先程の言葉の理由が、何となく解った気がした。
 だがそれなら尚のこと、早くこの傷を治してやらないと。

 

 

「……傷自体は軽いほうだけど、炎症を起こしてるし、少しだけど化膿しかけてる。相当辛かっただろうに、よく我慢したね」

 

「……」

 

 

 優しい労りの言葉に、統は思わず両目をきつく閉じた。耐えきれず、涙がひとしずく流れ落ちる……霞は黙って傷の治療を進め、続いて点滴を開始した。

 

 

「点滴にも化膿止めを入れておいたけど、後で飲み薬も飲むように。炎症が収まれば治りも早くなるからね」

 

「……はい」

 

「暫くは毎日消毒とガーゼ交換をしたほうが良いね。通院してもらえると一番良いんだけど」

 

「……言わないでくれ。頼む」

 

 

 予想通り、即座に懇願される。だが治療を拒否するニュアンスは無かった。

 

 

「何故?」

 

 

 静かに聞き返す。押し込めている彼の言葉を、気持ちを、引き出す。

 

 

「……芥を傷つけちまう」

 

 

 顔を背けたままの長い沈黙の後に、一言。絞り出すように、苦しそうに。

 

 

「……優しいんだね、君も。彼を悲しませたくない、って一生懸命考えたんだろう」

 

「……」

 

「ただ、僕は少し気になる。君が彼の立場でも同じように思うのかな?もしも本当の事を聞いたとして、その時『知りたくなかった』と言って悲しむんだろうか」

 

「……」

 

 

 もう返事は無かった。だがその瞳は薬液が一定の早さで落ちる様をじっと見つめている。

 何かを懸命に考えている。或いは心の裡で葛藤しているのだろう。

 

 

「……点滴は40分くらいで終わる。ちょっと長いけど、今だけだから頑張って」

 

 

 器具を片付けながら、統に再び話しかけた。

 

 

「通院の件は山吹君に伝えるけど、君が撃たれた事は言わない。診療所に来てくれたら、今日のように他の誰にも見せないようにして処置をする。勿論、うちの看護師にもだ。これは約束する」

 

「……」

 

 

 統が微かにだが頷く。彼なら大丈夫だと、霞は確信した。

 

 

「じゃあ、また後で」

 

 

 

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